副塾長,西日本豪雨により被災!! -「思い出」が〈思い出〉になってしまった-
西日本豪雨(平成30年7月豪雨)から1年が過ぎました。
お亡くなりになられた皆様に謹んでお悔やみ申し上げます。
また,豪雨被害に遭われた方々に心からお見舞いを申し上げます。
中でも,現在,未だ復興の見通しをお持ちになることのできない方々が,一刻でも早く,通常の生活にお戻りになられますことを衷心よりお祈り申し上げます。
この度,そうした方々への哀悼の祈りとお見舞いの意をもって,西日本豪雨災害直後に認めていたブログ記事を投稿することといたしました。
私にとっても西日本豪雨は一生忘れることのできない出来事だからです。
なぜならば,当塾副塾長住本小夜子も被災者の一人であるからです。
生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」の塾長 小桝雅典です。
この度の西日本豪雨災害に際し,お亡くなりになられた皆様に謹んでお悔やみ申し上げます。また,被災された皆様に衷心よりお見舞い申し上げます。
さて,当塾の副塾長 住本小夜子も被災いたしました。平成30年7月6日(金)午後7時12分のことでした。住本から,Skypeメッセージが入りました。
「確かに危ない!!」
「あと(川の氾濫まで)3メートルくらい!!」
午後8時10分,
「念の為に,避難の準備をしています。」
午後9時31分,
「(避難先の)小学校に着きました。こども共々無事です。」
午後11時52分,
「(荷物を取りに一時帰宅した近隣の方に)状況を伺ったら,我が家はダメらしいです。」
午後11時53分,
「(床上)浸水です。」
住本の住居(2階建てアパートで,住本は1階に居住していた)は,広島県東広島市を流れる黒瀬川のすぐ傍で,川より一段下の低地にありました。この頃,道という道は既に寸断されていました。住本の住居の近辺では,2トントラックの天井部分だけが,泥で濁れた水面にかすかに見えたそうです。住本の住居の2階に住まう方々は逃げ遅れ,救助を待つことになりました。
住本一家を救いに行くことはできませんでした。居ても立っても居られないもどかしさだけが募りました。私は,川が氾濫したのだと思いました。しかし,後にわかったことですが,黒瀬川は間一髪氾濫を免れていました。
これも後にわかったことなのですが,住本が居住していたアパートのすぐ近くに,幅2メートルほどの農業用(と思われる)水路があり,そこから鉄砲水が押し寄せたのです。それは,小さなダムの放水のようでした。
注:住本を含め,アパートの住人やこの地に来て数年の方は,その水路の存在すら知りませんでした。被災後,鉄砲水の原因を調べた住本が用水路を発見しました。
それとともに,ただ滝のように容赦なく,怒涛のように叩きつける雨が,地面から溢れ返り,大きな大きな沼地をつくっていったのです。その後,住本一家は我が家に身を寄せることになりました。
「アパートの管理会社から,引っ越し対象と言われたよ。しかも,引っ越しにかかる費用は実費で,全て自分(=住本)持ちだって。」
7月9日(月),
住本と私,2人だけの引っ越し作業が始まりました。引っ越しと言っても,まず新しい住処がありません。かと言って,仮に新しい住処があったとしても,運び込む荷物は殆どありませんでした。
近くの空き地は,日に日に,茶色い泥と青緑色のカビに塗(まみ)れた瓦礫の山を築いていきます。近隣の家々から運び出された家財道具等でした。
じりじりと照り付ける7月の太陽が,肌をチクチクと差していきます。元の住処は泥と糞尿とを混ぜたような悪臭を放っていきます。まるで,ドブの中にいるようです。いつしか,身体はシャワーを浴びたようになり,頭はくらくらしていました。
元の住処のリビングに,いつの間に,どこから入ってきたのでしょうか,小さな青ガエルが一匹いました。でも,自分の意志では動けないようです。そっと,両手で掬い,泥交じりの湿地に帰してやりました。私にとっては,それが精一杯でした。
「これを捨ててもいいのか・・・?」
「あれは空き地行きか・・・?」
「ホンマにこれも捨てていいのか・・・?」
住本は気丈に振る舞っていました。
「もう使えんよ。菌も付着しているだろうから,こどもが感染したら大変よ!! ええけん,捨てて!!」
思い起こせば,約1年前,2人の幼いこどもを抱え,シングルマザーとなった住本は,再起をかけ,この地に移り住んだのでした。その日から,一つひとつを紡いできた生活の「思い出」。その立役者となった品々が,今や変わり果てた姿となって,次々と空き地に積み重ねられていきます。
「ああ,こどものアルバムが・・・ 生まれた頃からの2人の写真が・・・ さすがにこれはきつい!!・・・」
こども部屋の床近くにしゃがみ込んだ住本の背中が,急に小さくなったように見えました。悪臭に塗れ,泥汁が垂れ出したアルバムの写真を,一つひとつ大切に,丁寧に脳裏に焼き付けるようにして,住本はページをめくっていきます。
「このアルバムの写真も捨てんといけんのんじゃろうね・・・」
あの気丈だった住本の声がかすれて聞こえました。その刹那,住本の丸まった小さな背中が滲んで見えました。
「この一帯もやられたんか!?」
家財道具を空き地に運んだ帰り,軽トラに乗った見知らぬ年配の男性に声を掛けられました。
「ええ,この辺りは,一帯,床上浸水ですわ。」
「そうか・・・」
「なにもかも持って行かれました。」
「うちの集落では命を持って行かれたわい・・・」
「・・・・・・・・・・」
それまで伏し目がちだった男性と,初めて目が合いました。その眼には,みるみるうちに涙が溢れてきました。
「プー!!」
「ああ,後ろから車が来ましたよ。」
「おおう,ほんなら行くわ~。気を付けんさいよ!!」
「ありがとうございます。気を付けてくださいね!!」
ああ,暑い!! はあ,はあ,はあ・・・
ううん? ・・・ あの年配の男性,何をやっているんだ!? まさか物色か!? 被災者の面前で物色か!?
被災者はみな項垂れて,家財道具をこの空き地に運んでいる。一つ運ぶたびに,一つの「思い出」が野に化していく。その真っ只中で物色か!? あまり汚れていない,金目の物ばかりを軽トラに運んでいる!!
注:私のモットーは「正確に〈事実〉を見極めて,物事を判断する」です。しかし,この折には,冷静さを欠いていました。「物色」か否か,確かめてはいないのですから。ですが,私にはどうしても「物色」に見えたのです。
それはあんまりだろう・・・
被災した方々が,その男性を淋しい眼差しで見つめているじゃないか!! さっきまで,我が家にあった家財道具が,今は軽トラの荷台の上か!!
西洋思想の知的操作に回収された現代の日本では,そりゃあ,空き地に捨てられた家財道具に,最早「所有権」はないのだろう・・・
それにしても,感情的に許せない!!
これを「その人」の問題として捉えていいのか!? 「学校教育」の問題ではないのか!? そうではなくて,「教育」も,「人」も,「時代」も,全て融合された問題なのか!?
サッカー観戦後や選手ロッカールームの後片付け,被災後の礼儀正しい対応など,日本の品格を伝える報道は数多い。確かに,「誠実の美徳」を備えた人々が相対的に多いのが日本なのだろう。しかし,飽くまでも,「相対」の問題であって,「総体」ではないのだ。世界中の人々が「相対」を「総体」と勘違いしている現代日本の現況があるのではないか?
〈教育〉は,マスコミなどから得る情報をきちんと〈相対化〉できる力を育成しなければならない。喫緊の課題だ。そうしなければ,〈真実〉を見失うぞ!!
〈真実〉を見失えば,偽善と偏見は世にはびこり,〈誠実な人〉は傷ついていく。〈真実〉を見ようとしなければ,誠実に生きていくための課題発見はおぼつかなくなる。その結果,こどもたちへの「教育」は行く先を見誤ってしまう。
ああ,何を考えているんだろう・・・?
こんなときにも〈教育〉のことを考えているなんて・・・
ああ,暑い。頭が朦朧としてきた。
7月16日(月),
なんとか定めた新居に,とりあえず生活ができるだけの物資を搬入することとなりました。
住本は,少しは落ち着いてきたようです。避難所となった,息子さんが通う小学校の体育館での一場面を私に語り始めました。避難したばかりの頃のことです。
住本から提案し,東広島市職員,小学校の教頭先生,自治会関係者及び住本当人との間で,避難後,常時,情報共有をすることにしたそうです。その第1回目,自治会関係者が,特に住本に話されたことです。
「住本さんが住んでおられたところはのう,昔から水害がよくあったところなんよ。その地域に限った話ではなくてのう,引っ越し先を定める時には,その地域性をよく調べ,確かめておかんとのう。地元の人に訊くのが一番よ。」
7月17日(火),
片付けがもう少し残っていたため,住本と私は元の住処の駐車場に降り立ちました。向かいの一段高くなった盛り土に立派な家を構えておられる,そこのご主人が庭に出ておられ,私たちに声を掛けてくださいました。一段高いと言っても,そのお家も浸水を免れてはいませんでした。
「もう(片付けは)終わられましたか?」
「ありがとうございます。まあ,なんとか。もう少しで終わるところです。」
「そうですか・・・この辺りは19年前にも水害がありましてね。ご存知でしたか?」
「いいえ。全く。」
「そうでしたか。その折にも,我が家は被災したのですよ。そして,今回も。一戸建てですから,どうしてもここを離れるわけにはいきません。私も,今回の災害後,つい先日知ったことなのですが・・・ この辺りを古くから『水越(みずこし)』というのだそうです。」
「『水越(みずこし)』!! 読んで字のごとくじゃないですか!!」
「そうなんです。それを早くから知っていたら,ここに家を建てることはありませんでした。」
「・・・・・」
住本は,元の住処を片付け始めた,その当初から,興味深いことを口にしていました。
「空き地などで会う見ず知らずの人たちに2タイプあるんよ。一つは,私を見て,厳かに頭を下げて通り過ぎるタイプ。もう一つは,私を見ても素通りするタイプ。私はわかったんよ。頭を下げて通り過ぎる人たちは,被災した人たち。素通りする人たちは,物見遊山な人たち。」
この言葉を聴いた私は,その後,空き地を初めとする,元の住処の界隈を,片付けの合間,観察し続けたのです。そして,一人こうつぶやきました。
「なるほど。」
7月18日(水),
元の住処の駐車場を去る時でした。住本が,私からやや離れたところで,元の住処をぼうっと眺めながら,何かをぼそっとつぶやきました。私は思わず振り返り,住本の後姿を凝視しました。
「ここで1年間,2人のこどもとがんばってきた。こんな形で終わるとは思ってもいなかった。
。・・・・・でも,またこどもたちと3人で,新しい「思い出」をつくればええんよね。」瞬間,私は住本に背を向け,青く潤んだ空を見上げるしかありませんでした。私は,この1年間,住本が懸命に積み重ねていた労苦をよく知っていました。だから,そうするしかなかったのです。この時,私は初めて天を恨みました。
「健気に精一杯生きる人間に,なんて仕打ちだ!!」
住本が私に近づいてくるのがわかりました。住本は肩越しに語りかけてきました。
「少し文脈は違うけど,こういうときだからこそ,我らが「鍛地頭-tanjito-」のキャッチフレーズ,
じゃないといけんよね。」【関連】「すかさず! 大きな声で! スマイル!!」(「鍛地頭-tanjito-」BLOG記事より)
そう語る住本の声は,元の気丈な「住本小夜子」の声でした。
[後記]
本ブログを認(したた)めるに際して躊躇がございました。お亡くなりになられた方を初め,甚大な被害を受けられた方は大勢おられるのです。ただ,ブログとすることを決心した私の心底には,お亡くなりになられた方へ深く哀悼の意を表するとともに,被災者の皆様へのお見舞いの気持ちが強くありました。また,勝手ですが,私の心の支援者である住本の身に起きた不幸な出来事を書き留めておきたい気持ちもございました。さらに,一被災者の被災の〈事実〉を読者の皆様に知っていただきたいと願う我儘な気持ちもございました。本ブログをお読みになり,不快な思いをされた方もおありのことでしょう。まずもって,お詫びを申し上げる次第です。
© 2018 「鍛地頭-tanjito-」
すかさず! 大きな声で! スマイル!!
生きる自分への自信を持たせる 「鍛地頭-tanjito-」副塾長の住本小夜子です。
まず初めに,メディアなどで取り上げられている,東京都目黒区で起きた5歳女児の虐待死について,胸を痛めておられる方も多いのではないでしょうか? ここに深く女児のご冥福をお祈り申し上げます。
さて,前回のブログに続いて私事です。それは息子(軽度の自閉症スペクトラム)のことです。
3歳までの息子は,育児参考書に沿ったような成長過程で育ってきました。(これも,息子の「個性」なのですかね?)
ところが,幼稚園に入園した頃から,少しずつ,少しずつ,所謂〈個性〉が目立つようになってきたのです。
そのような息子に対して,「どうして,何回教えても分からないの?!」「この前も言ったでしょ?!」と,口を開けば,そのような言葉しか出ない私がいました。
私は,息子のためと思い,根気強く指導を続けていました。ですが,息子の成長に,ほとんど効果はないと思えたのです。努力しても,努力しても,期待した成果は得られず,親子で心身ともに結構な疲労が蓄積した頃になって,ようやく,私は気づいたのです。
○ 私のやっていることは,息子を自分の思い通りにしようとしているだけじゃないの?
○ 大人の解釈で,私の枠組みにはめようとして,こどもに「あれして」「これして」と言っているだけじゃないの?
これらに気づいてからは,「どうしてできないのか」ではなく,「他にできることがあるのではないか」と考えるようになりました。「できないこと」に注目するのではなく,「できること」に視点を移したのです。「てきること」に対して,「どうやったらもっとできるようになるのか」を, 息子と一緒に考え,実践することにしたのです。
前回の記事(「生徒指導の三機能とメンタリングとの関係について」(住本小夜子,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2018.6.7))にも記述しましたが,「一緒にやる」ということが,息子の場合には効果的なのです。(※ 個々人での,適切な対応は異なります。)そして,最も重要なのは,【共通した目標を持ち,それを成し遂げた際は,こどもを認め(褒め),達成感を共有する】ことだと考えます。
一緒に決めた目標を達成できたのだから,それをしっかりと言葉(ボディランゲージなどノンバーバルな言葉も含む)で,「できたね!!」とすかさず,大きな声で,しかもスマイルで言います。
こどもというものは,「できたこと」について自分自身が自覚を持っている場合もありますが,そうでない場合もあります。いずれの場合にせよ,「できたね!!」「やったね!!」などの言葉は,大人も認めていることをこどもに明確に伝え,こども自身に目標達成を確実に認識させる大切な評価の言葉なのです。
ただし,いくら「できたね!!」と述べたとしても,「できない,できない,できるはずがない。」と思っている心の状態で,「できたじゃない。」と,大人がこどもにその言葉を掛けてしまうと,その大人の思いは,直接,かつ,赤裸々にこどもに伝わってしまいます。それでは,こどもは達成感を得られませんし,自分を認めてもらったという気持ちにはなりません。
そうならないためには,日ごろから,大人が「(うちの子は)できない。できない。」と思うのではなく,「(うちの子には,)何ができるのだろう。できることは何なのだろう。」と,こどもの良い点を探す姿勢を持っていることが大切だと思うのです。そして,「できたね!!」に+αして一言加えると,さらに効果的です。
例えば・・・
「できたね!! お母さんも嬉しい!!」「できたね!! お母さん助かったよ!!」などというように,素直に感情を表します。
これにより
○ こどもに感謝の気持ちを伝えることで,それが自信へとつながります。
○ 傍で見ている子の向上心や競争心も養われ,モチベーションを高めることができます。
○ 目標達成を共有するとともに,なぜ達成できたのかという経過を明らかにし,ナレッジ(経験知)を蓄積していきます。
(参考 株式会社アンテナ 7つのコーチングステップ~その7「ゴール到達の達成感を共有する」)
※ ナレッジ(経験知):「経験知」 別表記:暗黙知,経験したことで得た知識。特に作業現場で培われた、勘や感覚などとして体得された知識。逆に文章や数値として表現し伝達できる形式の知識を形式知という。(実用日本語表現辞典)
私の場合は,さらに,「できた~!! (こどもも私も)嬉しいね!!」と,感情を大いに表現しながら,こどもと一緒に万歳をして,できたことで私がどう思っているのかを,頭をなでたり,抱きしめたりしながら伝えています。
実を言いますと,上述した〈「できたね!!」+α〉の手法は,当塾の講座内容の一部です。
当塾では,〈「できたね!!」+α〉に伴う動作・様態として,
を推奨しています。これは,当塾のキャッチフレーズの一つでもあります。自閉症スペクトラム」などを持つこどもは,すぐに自己の関心が「できたこと」 ではなく,別の事柄に移りますから,「すかさず」できたことを認めないと,時間が経過してしまえば,何を認めてもらったのかを認識できなくなります。)
:こどもが目標を達成したり,良いことをしたりした場合には,座に,時間を置くことなく,評価の言葉を発することが大切です。 (特に,「:実際,こどもが目標を達成すると,自然に大声になりますね。
:これも,「大きな声で」と同様に,自然相好を崩してしまうものですけれど,「すかさず! 大きな声で! スマイル!!」を日常から意識していることが大切なのです。
お子さまの良いところをぐんぐん伸ばすために,「できたね!!」や「いいね!!」に一言加え,「すかさず! 大きな声で! スマイル!!」で認めて(褒めて)あげてください。
こうした行為もまた,「自己有用感(他者のために役立っていると思う感情)」と,「自己存在感(自分の価値についての感情)」を高め,「自尊感情」を形成するのです。
© 2018 「鍛地頭-tanjito-」
【後編】個に応じた発達支援―ペアレント・トレーニングを採り入れてみて―
「鍛地頭-tanjito-」
〇 面接試験対策講座
〇 学校生活に関するお悩み・トラブル解決コース
〇 教育セミナー
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生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」副塾長の住本小夜子です。
前回の記事「【前編】個に応じた発達支援―ペアレント・トレーニングを採り入れてみて―」の続編です。種々の視点からの育児・教育支援についても記述しております。一瞥いただければ幸甚です。
息子と娘の目標(トークンシステム)
息子と娘,それぞれの目標を記入した用紙(上掲写真:「息子と娘の目標(トークンシステム)」)を作成し,いつも目に付くリビングの壁に貼り付けました。これまでは,息子だけが取り組んでいたトークンシステムですが,今回から娘も一緒に取り組みます。
息子と娘それぞれの目標は,次のとおりです。
- 字をていねいに書く
- やることがさき(スケジュール)
- だいじなやくそく
「自閉スペクトラム症である息子本人が障がいを受容したとき」(住本小夜子,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2018.10.19)
《娘の目標》
- あいさつをする
- おてつだい
- のこさずたべる
仕組みは,
- 日ごと(就寝前)にできたかどうかを自己及び他者評価。目標をクリアしていたら,それぞれの項目に「☆(星)シール」を貼る。
- その日の目標を3つ達成できていたら,はらぺこあおむしの「ご褒美シール」を専用のノートに1枚貼る。
- 「ご褒美シール」が3枚溜まったら,ガチャガチャ1回。
評価については,自分で自分を評価(自己評価)するとともに,息子と娘がお互いを評価(他者評価)し,最後に私が息子と娘の自己評価と他者評価とを見て,最終的な評価を行います。
ガチャガチャの中身(ご褒美)は,事前にこどもたちと話し合って決めました。自分がしてほしいこと,(家族等で)一緒にやりたいことを中心に考えました。例えば,「ままごと15分」「スペシャルタイム15分※2」「ドーナツを買ってもらう」などで,中には「こちょこちょ(くすぐり)タイム15分」(こどもたちからの要望で,スキンシップです(笑))というものがあります。とにかく,息子と娘にとって楽しいことや嬉しいこと,わくわくすることをご褒美としました。
シールを貼る息子と娘
この記事を書きながら,ふと気づいたことが1つありました。それは,こどもだけではなく,私も一緒にトークンシステムに取り組むことです。家族みんなで取り組めば,より一層大きな効果が得られるかもしれないし,これまで気づかなかったことも見えてくるかもしれない。「思い立ったらすぐ行動!!」ということで私のトークンシステムも追加した次第です。
《私の目標》
- えがお
- だっこ:こどもたちとのスキンシップを大切にするということ。
- お話:こどもたちとのコミュニケーションを大切にするということ。
私も加わったトークンシステムの結果については,追ってブログ記事に認(したた)めたいと思います。
親子で取り組むトークンシステム
さて,我が家に採り入れたペアレント・トレーニングですが,そのプログラムを,そのプログラムに対する一般的な解釈のまま採り入れていたわけではないのです。ペアレント・トレーニングそのものと述べるよりも,その採用には課題があるのです。
ペアレント・トレーニングは,「褒める」ことが大前提となっています。すなわち,一般的には「叱ってはいけない」と捉えられているということです。ペアレント・トレーニングを勉強された方ならば必ずと言って良いほど直面する,「何があっても叱ってはいけないのか?」という課題です。
住本家の「家庭の教育方針」には,息子が生まれてから徹底して指導している項目があります。
1 自他共に傷つける行為(暴力・悪口など)
2 物事の順序(列の順番など)を守らないこと
3 (出してはいけないところで)大きな声を出すこと
4 大人の指導を無視すること
これらの項目を設定した背景には「道徳教育」があります。
どう‐とく〔ダウ‐〕【道徳】
1 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。
2 小・中学校の教科の一。生命を大切にする心や善悪の判断などを学ぶもの。昭和33年(1958)に教科外活動の一つとして教育課程に設けられ、平成27年(2015)学習指導要領の改正に伴い「特別の教科」となった。
3 《道と徳を説くところから》老子の学。
デジタル大辞泉の解説,コトバンク(2019.6.17 アクセス)
この道徳については,幼児期からのしっかりとした指導・教育が必要です。なぜならば,幼いころに指導・教育されたことは,当該のこどもの成長に多大な影響を及ぼすからです。
「(身体的及び心理的な)暴力を(幼少期から)許し続けてしまったら,(大人になっても,身体的及び心理的な)暴力で解決することしかできない。」
「(幼少期から)物事の順序を守ることができなければ,(大人になっても)どこにいても秩序を乱してしまう。」
この世には,「(これも最近塾長がよく口にする)物心二元論の残滓としての自我中心主義」を地で行く数多くの手法としての「育児」や「教育」と呼ばれるものがありますが,いずれの手法においても「道徳(性)」を抜きに語れば,それは〈育児〉や〈教育〉ではなくなってしまうのです。他のこどもに暴力を振るう我が子を指導しない/指導できない/「のびのびと育てる」というスローガンを掲げ,「いけませんよ。」と軽く注意を促す程度の様態を「育児」や「教育」と呼ぶ有様は,最早〈育児〉や〈教育〉を取り沙汰する次元にはなく,蛮行に加担する〈蛮行〉でしかありません。
我が国の教育は,教育基本法第1条に示されているとおり「人格の完成を目指し,平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われ」るものである。人格の完成及び国民の育成の基盤となるものが道徳性であり,その道徳性を育てることが学校教育における道徳教育の使命である。平成25年12月の「道徳教育の充実に関する懇談会」報告では,道徳教育について「自立した一人の人間として人生を他者とともにより良く生きる人格を形成することを目指すもの」と述べられている。道徳教育においては,人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を前提に,人が互いに尊重し協働して社会を形作っていく上で共通に求められるルールやマナーを学び,規範意識などを育むとともに,人としてよりよく生きる上で大切なものとは何か,自分はどのように生きるべきかなどについて,時には悩み,葛藤しつつ,考えを深め,自らの生き方を育んでいくことが求められる。
小学校学習指導要領解説 特別の教科 道徳編,文部科学省,平成27年7月(2019.6.17 アクセス)…b
道徳的価値について自分との関わりも含めて理解し,それに基づいて内省し,多面的・多角的に考え,判断する能力,道徳的心情,道徳的行為を行うための意欲や態度を育てるという趣旨を明確化するため,従前の「道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを深め」ることを,学習活動を具体化して「道徳的諸価値についての理解を基に,自己を見つめ,物事を多面的・多角的に考え,自己の生き方についての考えを深める学習」と改めた。さらに,これらを通じて,よりよく生きていくための資質・能力を培うという趣旨を明確化するため,従前の「道徳的実践力を育成する」ことを,具体的に,「道徳的な判断力,心情,実践意欲と態度を育てる」と改めた。
前掲書b
こどもが幼い頃から普段の日常生活の中で,最も近くに存在する保護者が〈指導・教育〉すること,それが道徳性を身に付ける上で大切な根幹ではないでしょうか。「(道徳性は)幼稚園や学校といった集団生活の場で身に付くものだから。」と,つまり,先生に任せておけば良いと言わんばかりに,こどもの近くに存在する保護者が傲岸不遜(ごうがんふそん)な態度でいると,最大の被害者となり得るのは, 幼少期に当該のこどもたちを取り巻く環境下で,大人たちから何も教わらなかった故に,集団生活の中で狼狽(うろた)えるしかないこどもたちなのです。
こうした考え方を下敷きにして,批判的思考法(クリティカルシンキング)※3でもってペアレント・トレーニングを俯瞰するとき,そこには「個-集団」の図式が検証軸として浮上してきます。「個」とは「こども―保護者」関係を,「集団」とは「こども∈(保護者を除く)他者世界(こどもたちが帰属するそれぞれの集団,例えば,保育所,幼稚園,学校,学習塾,スポーツ少年団など)」を意味します。
これらの連関性をペアレント・トレーニングに当て嵌めてみると,ペアレント・トレーニングは主に(直截的には)「個」の連関性の枠組みにあると言えます。換言すれば,ペアレント・トレーニングは(直截的には)「こども∈他者世界」の範疇外に位置するトレーニングであることになります。ただし,当塾としては「「個」/「こども∈他者世界」」の構図で描く二項対立的な関係性ではなく,「こども∈他者世界」を意識した「個」のトレーニングとしてペアレント・トレーニングを捉えるべきだと考えています。平たく述べれば,我が家だけの家庭等の教育(以下,「家庭等教育」と表記します。「家庭等」と表現する理由は,「家庭」ではないが,「家庭」に相応する環境で育つこどももいるからです。)を意識し行うのではなく,こどもが様々に所属する家庭等外の集団性(生活)を意識した家庭等教育を行わなければならない,すなわち,家庭等の中だけでこどもを「良い子」にしてしまえば,家庭等外ではどうでも良い(他人任せ)という家庭等教育を行ってはならないと考えているのです。
ですが,現実はそうではありません。ペアレント・トレーニングを経験された多くの方が 「何があっても叱ってはいけないのか?」 との疑問をお持ちになることが顕著な左證(さしょう)で,ペアレント・トレーニングの講習を受けられた方は無意識裡に 「「個」/「こども∈他者世界」」の構図で描く二項対立的な関係性に気づかれており, 「こども∈他者世界」」の必要性を痛感しながらも,「個」の連関性が(結果的に)強調されるペアレント・トレーニングの「語り」によって,自らの意識を「個」に強引にも向けなければならないジレンマを感じておられるのです。ただし,こうしたジレンマはペアレント・トレーニングの講習を受けられた方のそれぞれが心の裡に抱かれている感情であって,表向きにはペアレント・トレーニングの「語り」とその講習を受けられる方の「語り」によって生産される「何があっても叱ってはいけない。」(=ペアレント・トレーニングの「語り」とその講習を受けられた方の「語り」とがそれぞれ予期せぬところで醸成した〈語り〉)が作り出した〈叱ってはいけない言説〉の権威性に服従してしまっているということが本当のところなのでしょう。そして,そうした〈言説〉がペアレント・トレーニングだけではなく,巷間に流布しているのが現状です。
こどもは決して家庭等の中だけで育つものではありません。それは全ての大人が首肯(しゅこう)されることです。こどもは発達段階を逐次経ながら,それぞれ種々の集団に所属し成長していきます。ですから,家庭等での〈個の教育〉と〈集団での教育〉は1本の水脈のごとく連動しており,決して分断されるものではありません。仮に,分断が是であるならば,こどもたちの発達段階は中途で分断されることになるでしょう。それでは人格形成を成し得ません。〈個のアイデンティティー〉など育つはずがないのです。
だからこそ,各家庭等で行う〈家庭等教育〉はその先に必ず行われる〈集団での教育〉を想定(意識化)したものでなければならず,〈家庭等教育〉と〈集団での教育〉との均衡(バランス)を考えた《教育》が重要であり,必要であると言えるのです。
1 集団指導と個別指導の意義
集団指導と個別指導については、集団指導を通して個を育成し、個の成長が集団を発展させるという相互作用により、児童生徒の力を最大限に伸ばすことができるという指導原理があります。
そのためには、教員は児童生徒を十分に理解するとともに、教員間で指導についての共通理解を図ることが必要です。
なお、集団指導と個別指導のどちらにおいても、①「成長を促す指導」、②「予防的指導」、③「課題解決的指導」の三つの目的に分けることができます(図表1-4-1参照)第4節 集団指導・個別指導の方法原理:1 集団指導と個別指導の意義,生徒指導提要,文部科学省,平成22年3月,p.14(2019.06.18 アクセス,下線は筆者が施しました(以下,同様))…c
(1)集団指導と個別指導のバランス
教育の原点は、端的に言うと、一人一人の児童生徒の「生きる力」を伸ばすことです。
このことについては、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」(教育基本法第1条)や「個性を尊重しつつ能力を伸ばし、個人として、社会の一員として生きる基盤を育てる。」(教育振興基本計画)からも明らかなことです。そして、一人一人の児童生徒の個性を大切にして、「生きる力」を伸ばすために働きかけをすることが生徒指導です。
学校の教育活動において、一人一人の児童生徒の生きる力を伸ばすためには、集団指導と個別指導の両方が必要です。 「学校は社会の縮図である」と言われます。多様な他者とともに、よりよい生活や人間関係を築こうとする態度や基本的な生活習慣の確立、また、公共の精神など社会生活をおくる上で必要な力は、集団での活動を通してこそ伸ばすことができます。換言すると、人は集団や社会とのかかわりを欠いては、様々な問題を解決する力を得ることはできないということです。このことから、教員は児童生徒に発達の段階に応じて、段階的に社会的存在としての人間の「私」性の側面のみならず、「公」性をも併せ持っていることを意識させることが重要です。
前掲書c,p.15
上記の引用は,学校教育のフレームの中で語られたものではありますが,「個別指導―集団指導」の教育観は,先述の「〈個の教育〉―〈集団での教育〉」の教育観とほぼ通底していると言って過言ではありません。そして,ここで留意しておかなければならないことは,両者の教育観は決して「個別指導/集団指導」,「〈個の教育〉/〈集団での教育〉」と二項対立的な思考性を有していないということです。「バランス」なる言表に表象化されているように,それぞれの「項」は共時性・相互補完性を保つ,持続可能な〈教育〉であるということを肝に銘じておかなければならないのです。
ですから,我が家では,一般的なペアレント・トレーニングをそのまま取り入れるのではなく,それを改造して〈我が家流のペアレント・トレーニング〉を実施しているというのが本当のところなのです。
- 「道徳教育」を基底にしている。
- 「〈個の教育〉―〈集団での教育〉」の教育観に根付いている。
- 「鍛地頭-tanjito-」の〈ガイダンス・カウンセリング〉(=「教育学」と「心理学」からのアプローチ)の考え方を採り入れている。
「塾長の述懐 第6回(2019.4.21(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.23)
要するに,「こども―保護者」間及びその場のみのコミュニケーションにとどまらず,こどもの将来を見据えた持続可能な〈育児・教育支援〉というわけです。
世のこどもたちの健全な成長・発達を願い,その支援をより良いものにするため,現在,私は発達心理学,教育心理学,行動科学,神経発達症などについて学んでおり,大学や公開講座等に積極的に出席・参加し,多角的・多面的に様々な知識をインプットしています。このような学びを〈生きた知識〉として息子と娘にだけアウトプットするのではなく,育児・家庭療育・学校生活等で悩み,困惑しておられる皆様方にもアウトプットしたいと願っております。そのため,〈我が家流のペアレント・トレーニング〉を当塾で講座化するなど,〈新たな学び〉と〈新たな実践〉を生かした〈新たな活動〉を展開していこうと地道に準備を進めているところなのです。
こどもの明るい未来には,保護者の存在が大きく関与しています。私たち大人がどのようにこどもたちと接しかかわっていくのかは,これまで同様に大きな課題です。それを解決していくためには,私たちを取り巻く環境や時代の変化を心身に受け留めながら,「古(いにしえ)から受け継ぐもの」と「新たに取り入れていくもの」との相互性を見極めることが必要になっていくと,私は考えています。〈教育の不易流行〉を考える時期が,まさに今,到来しているのです。
「教員採用試験合格道場―オンライン教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」」(鍛地頭-tanjito-)
息子が通う小学校の運動会にて
※2 「スペシャルタイム」とは,保護者と二人きりで,子どもが好きなことをして遊べる時間のことです。スペシャルタイムの間,遊びの主導権は子どもにあります。保護者は受容的に,非指示的に子どもにかかわります。(前掲書a,pp.45-47)
※3 物事や情報を無批判に受け入れるのではなく,多様な角度から検討し,論理的・客観的に理解すること。批判的思考法。 (コトバンク:クリティカルシンキング(英語表記)critical thinking,デジタル大辞泉の解説,クリティカル‐シンキング(critical thinking),出典 小学館)
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【前編】個に応じた発達支援―ペアレント・トレーニングを採り入れてみて―
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こどもも保護者も一緒に楽しく成長でき,「自己有用感」 に裏付けられた「セルフ・エスティーム(自尊感情)」を高められる取り組みの参考にしていただければ幸甚です。
- (文)字をていねいに書く
- (例えば,他者との関係性を考えず,自らを優先した)自己欲求を満たす前に,やるべきこと(宿題など)を先に済ませる
そこで私は,ふと目にした画像をヒントに新たなシステムを導入することにしたのです。
次なる課題が発生したのです。
特別支援教育を推進していくことは、子ども一人一人の教育的ニーズを把握し、適切な指導及び必要な支援を行うものであり、この観点から教育を進めていくことにより、障害のある子どもにも、障害があることが周囲から認識されていないものの学習上又は生活上の困難のある子どもにも、更にはすべての子どもにとっても、良い効果をもたらすことができるものと考えられる。1.共生社会の形成に向けて,資料1 特別支援教育の在り方に関する特別委員会報告 1 ,文部科学省,下線は筆者による(以下,同様)。
小学2年生に進級してすぐに設けていただいた面談で,家庭で息子の連絡帳を確認する際に,私も一緒に丸つけやご褒美スタンプを押すことができるよう担任の先生にお願いしました。しかし,あまり効果が見られず,何かもう一工夫必要だなと思っていました。
そんな時,ふと思い出したのが「野々内あんざんそろばんスクール」さんのFacebookへの投稿です。塾長の野々内由香利さんは, 塾生に月1回のご褒美として教室にガチャガチャを設置されているのです。
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「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第6回)
(2) オリジナリティーを創造する視点形成の在り方
本ブログに先立って投稿している当塾のブログに,次のものがあります。
Aのブログでは「傾聴」の,Bのブログでは「視点形成」の重要性について,それぞれ指摘したところです。そして,今回,私は「傾聴―視点形成」間の連関性について,その重要性を指摘しなければなりません。しかも,そのことは,「システム思考」を促進する上においても,「語りの構造読み」(前掲ブログBを参照)を導入・駆使した国語科授業を推進するためにおいても必要であることを重ねて指摘しておかなければならないのです。
【関連】
それでは,早速ですが,「傾聴―視点形成」間の連関性について, C・オットー・シャーマーの「U理論」を援用しながら,「鍛地頭-tanjito-」の考えをつぶやくことにいたします。
【参考文献】
『U理論 過去や偏見にとらわれず,本当に必要な「変化」を生み出す技術』(C・オットー・シャーマー著,中土井僚・由佐美加子訳,英治出版,2010.11)…D
※ 私の愛読書の中の一冊です。
前掲書Dに「患者と医師の対話(ダイアログ)フォーラム」を扱った章(第10章 感じ取る(Sensing))」があります。そのフォーラムで「患者」と「医師」は心を開いた「対話」を展開します。話題は「患者と医師の関係性」(同 p.188)に検証軸を定め,それらの関係性を4つのレベルに措定し,現在の医療システムはどのレベルで作動しているのか,将来の医療システムの望ましい在り方はどのレベルなのかを「対話」するのです。
4つのレベルは,次のとおりです。
レベル1◇欠陥部品
第1のレベルでは,健康の問題は単にすぐに修理しなければならない壊れた部品として理解されている。(中略)たとえば,心臓発作を起こした患者は医師に緊急治療を期待するだろう。
前掲書D pp.185-186
レベル2◇行為
(前略)「薬で治療するだけでいいのでしょうか。私(筆者注:患者)はそうは思いません。私は,『問題はあなた(筆者注:患者)の心構えです。生活の中の行為を変えなければなりません。もっと自分のためになることをしなければなりません』そう言ってほしいのです。」このレベルでは,医者の役割は,正しい指示を与え,患者が行為を変えるためのインストラクターと言えるだろう。
同 p.186
レベル3◇思考
健康の問題は,行為のレベルでうまく解決されることもあるが,もっと深いレベルまで掘り下げなければならないこともある。行為は人々の前提と思考の習慣から生じる。(中略)時間がないと言っていると,病気によって無理やり時間を与えられることになる。これは間違いないと思う。将来の目的は何だろう。こうした問いを気にもかけず,人生を貴重な贈り物と思わないでいると,人は病気になる。(中略)このレベルで活動している人々にとっては,医者の役割は,患者が自分の人生と思考のパターンを内省するためのコーチである。
同 pp.186-187
レベル4◇自己変革のプレゼンス
(前略)ここでは,健康の問題は,個人を成長させ内面を育む旅に必要な糧ととらえられる。この糧が,創造の内なる源(ソース)が持つ潜在力を十全に開花させ,真の自己への旅に乗り出せと,我々を促す。(中略)ある女性は,こう語った。「(中略)そう,五八歳になって初めて『ノー』と言えるようになったのです。前は,いつでもオーケーだったのです。いつも活動していました。そうすることで自分のアイデンティティを失っていることさえ気づかなかったのです。今は,もう,将来の心配はしていません。私には,今日が大事なのです。この今が。」
この患者と医師の関係性の四番目のレベルでは,医師の役割は新しいものが生まれてくるのを介助する助産師だ。
同 pp.187-188
「対話」の結果,「(筆者注 フォーラムへの参加者の)九五%以上は自分の経験から,現在の医療システムは悪いところを機械的に治すことに主眼を置いていると感じてい」(同 p.191)ました。また,「ほぼ全員が,発達,自己変革,内面の成長を通して健康問題と取り組むレベル3とレベル4を最重要視するシステムであってほしいと願ってい」(同 p.191)たのです。それは至極当たり前の結果だと言えそうです。
さらに,「発達,自己変革,内面の成長」という観点からすると,この帰結は学校教育にも敷衍されるわけです。そのことは対話フォーラムに参加していた一人の女性教師の発言に集約されます。
「学校でもまったく同じ問題に直面しているのです。学校でやっていることも,最初の二つのレベルの活動だけです。」(中略)「私たちは機械的な学習方法を中心に授業を進めています。過去のことを記憶し,古臭い知識をテストすることに力を注いでいます。子供の知的好奇心や創造性,想像力を伸ばす方法は教えていないのです。いつも危機に反応しているだけです。これでは(氷山の図のレベル3とレベル4を指して)そういう学習環境を創ることは絶対にできません。そういう環境なら,子供たちは自分で将来を形成する方法を学べるのに」
同 p.192
ただ,この対話フォーラムで看過できないことがありました。それは,終局的にこの対話フォーラムで見られる「患者」と「医師」との連関性が二項対立の構造を有していないということなのです。このことは,「医師の話を深く傾聴していたある女性」の発言が何よりの左證となります。
「あなたがた(筆者注:フォーラムに参加している医師たち)のことがとても心配です。私たちのシステムがあなたや,私たちの最高のお医者様を殺してしまうなんていやです。何かお役に立てることはないのでしょうか」。
同 p.193
この発言を窺う限り,「ある女性」の視点はその女性の内側から外側へと出て行き(=「患者」の領域を超越し,新たな〈患者〉の立場性を構築して),「患者」と「医師」とで構成した「医療システム」を見詰め始め,やがてその「医療システム」の一員であり,「患者」と共に「システム」を動かしていた「医師」に焦点化して行くのです。このことは,前掲書Dで次のように記述されています。
これまで我々の視点(図10-2の白点)は一人ひとりの頭の中にあったが,ここまでくると自分の境界(図10-2の点線の円)の外に出ていく。つまり観察する者は内側から外にある領域(フィールド)を眺めていたのが,今度は領域(フィールド)からものを見始めるのだ。
このシフトが起こると,観察する者と観察されるものとの境界は崩壊し,観察者は本質的に異なる視点からシステムを見るようになる。観察者自身が観察されているシステムの一部になる視点である。
同 pp.193-194,図10-2は省略。
では,このような〈視点〉を獲得するには,どのようにすれば良いのでしょうか?
実は,この解答は先述の「ある女性」が示してくれていたのです。それは「傾聴」の姿勢です。「傾聴」とは「耳をそばだてて,心眼を開き,相手(他者)の心(関心・理解してほしいこと・伝えたいこと)に寄り添い聴くこと」(前掲ブログA)なのです。
次々に現れる視点や考え方に深く耳を傾ける。聞き方が深くなるにつれ,しだいに異なる視点や考え方の間にある空間に注意を払うようになる。その状態にとどまる。すると,次の実例に移ろうとした瞬間に突如移行(シフト)が起こり,目の前のすべての具体的な実例を生じさせている集合的なパターンが見えてくる。つまり,実例を結合している形成力が見えてくるのだ。
同 p.196
つまり,「傾聴」すれば,「目の前のすべての具体的な実例を生じさせている集合的なパターンが見えてくる」(前掲書D p.196)のです。これが,すなわち,私たちが様々に関与している「(社会)システム」のことなのです。
前掲ブログCでは,「システム思考」を次のように定義しています。
対象(事象・現象)の相互関係等を「システム(例えば,問題を発生させているメカニズム)」で捉え,多面的・多角的な見方でそれが有する問題の原因を探り,問題解決を目指す方法論のこと。
前掲ブログC
人は多様なシステムの中で生を営みます。それらの「システム(例えば,問題を発生させているメカニズム)」に我々は内在し,それらの「システム」を動かします。そのメカニズムは自己に内在する視点だけで捉えることは困難です。仮に,問題を発生させているメカニズムに係る問題解決を考えるならば,〈外化した多面的・多角的な視点〉も必要となります。そうした〈外化した多様な視点形成〉に欠くことができないものが「傾聴」なのです。人は「傾聴」により,「システム」が自分に押し付けているのではなく,自分が「システム」の一員として,「共創造(co-creation)」を行っていることに気づくのです。「対象(事象・現象)の相互関係等を「システム(例えば,問題を発生させているメカニズム)」で捉え」るとは,すなわち,「内化した視点」に加え,〈外化した多様な視点〉で「部分」を捉え,そこに立ち現われてくる「全体」を知ることなのです。
「我々はある物を知るのと同じ方法で全体を知ることはできない。なぜなら全体は物ではないからだ。課題は,部分の中に立ち現われてくる全体に出会うことである」とボートフトは言う。
前掲書D p.210
そのためには,「「全体から部分へと向かおうとする認知の質を高めなければならない」」(前掲書D p.210)とヘンリー・ボートフト(1938~2012)は述べるのです。
このことについて付言すれば,〈多様な視点形成〉のために文学的なアプローチを可能とする行為が「語りの構造読み」(前掲ブログB)と言えるのです。「心を開くことは深いレベルで情動的知覚を目覚めさせ活性化すること」(前掲書D p.197)であり,「心で聴くとは文字通り心を,感謝や愛を知覚する器官として使うこと」(前掲書D p.197)です。このような「心」の在り方で,〈読み手〉が〈語り手〉の声を「傾聴」するとき,そこには〈語りのシステム(構造)〉が髣髴としてくるのです。それは〈作品の命〉への旅を可能ならしめるものなのです。
最後に,私個人の行為として,本節を俯瞰してみます。そのとき,私は「患者と医師の対話(ダイアログ)フォーラム」において,「診られる人(患者)―診る人(医師)」間の連関性に高次に揚棄した関係(レベル3,4)を読み取ってしまうのです。それはまさにヘーゲルの弁証法を想起させます。しかも,レベル3,4からは「人間らしい生活」・「真正な生活(authenticity)」を志向するとともに,世界は他者との連関により成り立つと考え, 理想主義(idealism)と行動主義(activism)の 揚棄を希求する文化的・創造的な行為をも見て取ってしまうのです。
そして,こうした考え方(営為)は「一元論的トランスモダン論」を踏まえた考え方(営為)と言えるのだとも思うのです。
【参考論文】
repository.center.wakayama-u.ac.jp
【追記】
「The パクるな!!」シリーズの従来の予定では,今回,「難解言説」,「毎日言説」及び「一回性言説」等の中から一種類の「言説」を抽出し〈相対化〉する予定でした。しかし,そうした〈相対化〉に関する基礎知識として「オリジナリティーを創造する視点形成の在り方」は不可欠であり,〈相対化〉に関する読者の皆様の理解を促進できるものと考え,予定を変更しておりますので,ご海容ください。
「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる〔11〕
目 次
- 1 「通常の授業/補習授業」
- 2 「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる
- 3 「地頭」を定義する
- 4 「鍛地頭(「地頭」を「鍛」える)」とは
- 【関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ】
- 【お問い合わせ】
- 【過去の「塾長の述懐」シリーズ】
1 「通常の授業/補習授業」
「通常の授業は徹底して考える授業をするぞ。でも,始業前や放課後の補習授業は1点を無駄にしない(=1点の獲得に喰らい付く,受験テクニックを体得する)授業をするけんのう。」(筆者注:国語科教師が方言丸出し。)
高等学校の国語科教師として,毎年,どの学年も,どの科目も,最初の授業に私は学習者(生徒)に対してこのように明言してきました。それは初任者の時代(昭和63年・平成元年)から,県教委の職員や学校で主任・管理職となって国語の授業ができなくなるまで続きました。
「(国語の授業で,)50分間(1コマ)の授業において,その三分の一以上を教師の言葉で語ったら,その授業は失敗だと思いなさい。」
私が出身大学の教育学部(旧)国語教育学専修で叩き込まれた国語科授業観の一つです。ですから,授業者である国語科教師がダラダラと喋り捲る,所謂レクチャー型の授業を行うのではなく,――無論,授業の目的(ねらい)に合わせて,そうした授業があっても良いのですが,――簡潔に述べれば,私は学習者に〈考えさせる授業〉を行うことが信念でした。授業は真剣勝負です。1コマの授業の中で,必要な知識(情報)は注入し,――授業者の語り一辺倒に頼ることなく,授業のコンテクストの中で学習者の脳裡に必要な知識(情報)をインプットしていき,――学習者の既知の知識(情報)と併せて「地頭」をどれだけ活性化させ,鍛えることができるか。その点に全身全霊を打ち込んだものでした。毎日,毎時間の授業が終了すれば,内省によって授業の課題を抽出し,その〈内省〉を生かしながら,翌日の3~4種類の授業を組み立てました。私はカード(法)を使って授業を行っていました。――表には板書計画,裏には確認の質問からサブ→メインの発問計画を記述したA6判のカードを作成し,授業に携帯していたのです。殊に,メインの発問では様々な学習方法・形態を駆使しながら,しっかりと学習者に思考・判断・表現させたのです。最終的にカードは約500枚ほどになりました。――
ですから,1単元を終えるのに他の先生方より時間が掛かりました。それは必然でした。当時,私が国語科教師として職歴を積んだ学校には「シラバス」(単年度の授業計画や評価基準等を掲載した冊子)は存在せず,授業の進度は,随時,国語科の先生方との話し合いで決まっていたのです。
「小桝っさん,あんたのせいで,今回も(定期)考査の試験範囲が短くなったじゃないか! 何をトロトロやりょうるんなぁ! そんな授業をされたら堪らんわい! 受験に太刀打ちできなくなるじゃないか!! 〈考えさせる授業〉だって!? そんなもん理想よ!!」
先輩の先生方によく言われました。
事の是非は扨(さて)措いて(笑),常に私は自身が(教員として)初任者の折にも,そうした忠告(助言? 叱責? 詰(なじ)り?)に猛反発しました。先輩であろうが,容赦しませんでした。大喧嘩になったことも,事実,ありました。
「授業進度の速さだけが受験学力,延いては国語力に直結するのか!?」
「指導書(先生用ガイドブック)の文言を教科書教材の行間に蟻が這ったような文字で書き込み,それを滑滑(つらつら)と授業で読んで学習者に聞かせ(る授業をして),(学習者に)国語力が付くわけがない!!」
「〈考えさせる授業〉をして,「地頭」をしっかりと「鍛」えれば,受験なんぞ屁でもない!!」(筆者注:下品な表現で申し訳ございません。)
その代わり,補習授業で私は豹変しました。最初のクラス編成で,私の通常の授業を受けていない学習者も混じっていましたが,それでも意識的に豹変しました。そうしないと,自らが壊れてしまいそうに思えたからです。なぜならば,信念を曲げるのですから。「受験が社会システムである以上,私がそのシステムに住まわされ,神仏でない以上,信念を曲げないと「(受験)テクニック」だけは教えられない。」と当時の私は考え,困惑・困窮していたのです。
「(ならば,)1点を無駄にしない解き方を教えてやる!!」
例えば,センター試験の漢文などは,2週間あれば,得点を上げることができます。実際,ある年,模擬試験では全国平均点より十数点以下という学年を,センター試験直前の補習授業(期間 2週間)で,私のクラスだけは本番の試験で全国平均点を上回る成果を上げたことがあります。――ただし,私のクラスだけではダメなのです。少なくとも国語科の教員集団が組織性をもって,当該学年を対象とした成果を出さなければ。飽くまでも受験社会では。だから,いつしか私の補習授業には,他のクラスの学習者がこっそりと混ざる帰結に至ります。全く宜しくない。――しかし,これらセンター試験の漢文で成果を上げた学習者が,その程度のレベルの学力で漢文学を読めるかと言えば,回答は「(ほぼ)NO!」であるわけです。
一体,センター試験の「漢文」,延いては「国語」は何(の力)を測る試験なのか!? しかも,受験制度は社会システムだから(仕方がない)と(〈ホンモノ〉ではない)諦観の境地に仮寓するなら未(ま)だしも,(〈ホンモノ〉の)「社会システム」が存在することすら気づいていない大衆社会の実相があるのではないか!?
「時間を掛けて,受験テクニックに自ら辿り着き,活用する(=自分のものにする)「地頭」をつくれば,何も「困惑・困窮」することはない。」――現在の私はこう思うのです。
2 「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる
皆さん,こんにちは。
生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典です。
「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる。
これが私の信念であり,〈真実〉であると思います。受験テクニックも,そのテクニックを発見し,活用できる「地頭」があれば習得できるわけで,要するに「地頭」を「鍛」えること(=「鍛地頭」)がポイントなのです。――「鍛地頭」がポイントになる理由及びその具体的な方法については,追々,明らかにしていきます。ただし,ここでは,正しい鍛え方や鍛えるための考え方が存在すること,「鍛」えるためには,こどもたちの発達段階に即して長時間が必要であることを付言しておきたいと思います。――受験に対応できる学力(=仮に「受験脳」)は「地頭(力)」の一部を構成していることは事実であると思いますが,それだけのことです。なぜならば,「地頭(力)」の極一部でしかない受験脳だけでは,日常生活を真面(まとも)に送ることができないのが,何よりの左證だからです。そして,このことは万人が認めることでもあります。
受験テクニックだけで,地頭のできていないバランスを欠いた勉強ばかりしていると,たとえ希望の大学に入れたとしても,入学後は伸び悩んでしまいます。「大学までの人」と「大学からの人」と昔からよくいいますが,「大学までの人」にならないための一番の方法は,じつは探究学習にあります。探究学習を通じて,地頭力を鍛えることが絶対に必要なのです。「大学からの人」になれば,大学に行かなくても大丈夫,とさえいえます。
茂木健一郎(2019.4):『本当に頭のいい子を育てる 世界標準の勉強法』[キンドル版],第2章,超進学校ほど,受験テクニックは教えない,検索元 amazon.com…a
探究学習によって学習を効率化する脳の回路が働き,結果的には短期間で受験科目を伸ばすことができるのです。
前掲書a:第2章,探究学習が基礎となり,受験に受かる学力がつく,検索元 amazon.com
一年間は開き直って今の受験システムをまず突破しよう。でも,公式の丸暗記とかじゃなくて,自分で発見しながら探求型を採り入れてなるべく楽しく勉強しよう。受験が終わったら,切り替えてまた楽しく探究してください。
前掲書a:第2章,大変化の時代を生き抜ける子に育てるために,検索元 amazon.com
茂木健一郎氏の前掲書aだけから四つもの引用を一挙に行うことは,研究に正対する態度からすれば,「なっとらん!!」わけです。なぜならば,私の立論に都合の良い文献(箇所)だけを引用しているので,アンフェアだからです。換言すれば,茂木説に反論する引用も含めるべきだということです。そのことを承知で引用を試みた次第です。私の考えと全くもって通底していることから,私自身が嬉しくて興奮したので。――申し訳ございません。言い訳です(笑)。――
茂木氏は「探究学習」と紐付けて 「地頭(力)を鍛える」必要性を「絶対に」を付加して論じておられます。――「探究学習」とは,自らの周辺に日常的に生起する問題を自ら発見し,それを解決するため,情報を収集・分析・活用し,他者と〈対話〉を持ち,協働し,問題解決を行う(アウトプットする――結果・成果が出なくてもO.K,探究の過程を重要視する――学習(教育)方法※ⅰのことです。今次改訂となった新学習指導要領でも「総合的な探究の時間」を初めとして,各教科において重要視されています。――「探究学習」は「研究」の基礎づくりを担う学習方法ですから, 「地頭(力)を鍛える」 ことは,つまり「研究脳」をつくることとも言えるわけです。
このように,上記の引用文からも「地頭力(研究・探究学習)⊃受験学力(受験テクニック)」であることが読み取れるのです。
調子に乗って,前掲書aから多くの引用を行った序に,もう一つ。
僕(筆者注:茂木氏)の実感からいくと,日本で一番「頭がいい」と思われているであろう東大生でも,「本当の思考力」を身につけられている学生は,一割くらいです。
前掲書a:はじめに,東大生の一割しか,本当の思考力を身につけられていない,検索元 amazon.com
流石,茂木氏。東大出身の茂木氏が,「本当の思考力」を身に付けておられるからこそ(東大生の内実を含めて)言える言表です。というのも,「本当の思考力」とはまさに「地頭力」のことであり,それを「鍛」える必要性を唱えるとともに,「頭がいい」との評価言を疑うことなく口にする「東大(・京大)言説」に回収された大衆の相(すがた)を暴いていると読み取れるからです。これらの点については,私は既に次のブログで指摘していました。
【参考】
3 「地頭」を定義する
ところで,ここで再確認しておきたいことがあります。それは当塾が使用する「地頭」の定義です。一例として,辞書的には,次のような記述を見出すことができます。
じ‐あたま〔ヂ‐〕【地頭】の意味
1大学などでの教育で与えられたのでない,その人本来の頭のよさ。一般に知識の多寡でなく,論理的思考力やコミュニケーション能力などをいう。「地頭がいい」「地頭を鍛える」
goo辞書 出典:デジタル大辞泉(小学館),「2」の意味については省略しました。
しかし,当塾は「その人本来の頭のよさ」という概念を採りません。なぜならば,このように表現すると,生来の「頭のよさ」を連想し,「鍛」える必要性が認められないからです。――しかし,引用文中の下線部には,十分に「鍛」える必要性を読み取ることができます。――
では,当塾の「地頭」の定義とは?
豊富な知識量を基盤とした,
〇 問題解決能力(自らの身辺に生起する問題を発見し,その解決方法を自分の頭で思考・判断し,実践〔表現〕できる能力)
◎ 問題状況を多視点から捉え,分析できる能力
◎(社会的)コンテクストに応じた情報を収集し,知識化した情報を活用(論理的思考)・表現(コミュニケーション)できる能力(インプットからアウトプットできる能力)
◎豊かな発想力・想像力
〇 「思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)」を継続できる能力
〇 豊かな人間関係形成能力(乳幼児から大人に至るまでの「人(の存在)」を心から愛する豊かな感性)
◎他者を多視点から捉える能力
〇 他者と新しい文化を〈共創造(co-creation)〉できる能力
「「地頭(じあたま)」の定義」(当塾公式ホームページ)
つまり,一言で述べるならば,
総合的な人間力
ということになります。
当塾は,巷間に「地頭」を「12歳頃までに成熟する先天的な知能」と捉え,「地頭」そのものを鍛えられないものと考える向きがあることを重々承知いたしております。しかしながら,現代の脳科学者が「地頭力」という概念(言表)を使用するご時世なのです。
確かに当塾の「定義」は「豊かな感性」(情緒)までも含むものであり,一見,支離滅裂の誹りを免れないものだろうと拝察します。しかし,意識が言語に先立つのではなく,言語が意識に先立つと考えれば,――感性も言語世界の住人であり,脳内の言語作用に依拠するものならば,――「地頭(力)」に「感性」(情緒)が含有されていても少しもおかしくはないと言えるのです。
(前略)話し手の意思(意識)も聞き手の意思(意識)も,言語世界(言語共同体)の内部に存在しているということである。すなわち,言語を離れては人間の意思(意識)は存在しないということである。つまり,人間の意識なるものは言語と無関係に独立しているのではなく,つねにすでに言語的なものとして,言語に規定されて存在しているにすぎないということである。
長尾達也(2001.8):『小論文を学ぶ――知の構築のために――』,山川出版社,p.107,下線は筆者が施しました(以下,同様)。
それ(筆者注:読む,書く,話す,聞くが全教科の中心ということ)以上に重大なのは,国語が思考そのものと深く関わっていることである。言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。
藤原正彦(2016.4):『祖国とは国語』[キンドル版],国語教育絶対論,(二)国語はすべての知的活動の基礎である,検索元 amazon.com…b
人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすことはない,といって過言ではない。母国語の語彙は思考であり情緒なのである。
前掲書b:国語教育絶対論,(二)国語はすべての知的活動の基礎である,検索元 amazon.com
高次の情緒とは何か。それは生得的にある情緒ではなく,教育により育まれ磨かれる情緒と言ってもよい。たとえば自らの悲しみを悲しむのは原初的であるが,他人の悲しみを悲しむ,というのは高次の情緒である。
前掲書b:国語教育絶対論,(四)国語は情緒を培う,検索元 amazon.com
4 「鍛地頭(「地頭」を「鍛」える)」とは
我々は「間主観的拘束性※6により「自らが生きた時代や所属した共同体の精神及び認識(イデオロギー・共同主観)」(=時代及び各種共同体言説)に,固有の生活背景に起因する「個性化された認識」を加味した「語り」」※ⅱを語る存在です。その「語り」の基盤となる時代の推移は言語の位相を生じ,各種共同体は固有の言説を醸成します。つまり,「時代」及び「各種共同体」という枠組み,すなわち「構造」は我々人間の意識(やものの見方・考え方)を構造化します。その「構造」こそ「文化・文明」であり,それは「言語」に他なりません。このように考えれば,我々人間は「言語(世界)」の枠組みの中で,「言語に規定され」ながらものを考え,感じているのです。要するに,「意識」「感性」「情緒」は「言語」を離れて存在しているのではなく,「 すでに言語的なもの(大胆に表現するならば,「言語≒意識・感性・情緒」)として 」存在していると考えることができるのです。
だからこそ,(高次の)「豊かな感性」を磨くためには,〈言語能力〉と〈言語運用能力〉を鍛えることが最重要であるということになります。
このことは,「思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)」の育成においても同様に述べることができるわけです。――「思考すること」「判断すること」「表現すること」(「俯瞰すること」)は全て「言語」に依拠している(大胆に表現するならば,「言語≒「思考すること・判断すること・表現すること(・俯瞰すること)」)のですから。――
中央教育審議会 初等中等教育分科会 教育課程部会 言語能力の向上に関する特別チームは,「言語―思考・感性・情緒等」関係を「資質・能力の育成―言語能力」関係の中で捉えており,「整理メモ」の体裁でインターネット上にアップしていますので,是非参考にしていただきたいと思います。かなり長い引用となりますが,肝心な事柄ですので,次にその一部を引用しておきます。
2.資質・能力の育成と言語能力との関係について
・子供は,乳幼児期から身近な人との関わりや生活の中で言語を獲得していき,発達段階に応じた適切な環境の中で,言語を通じて新たな情報を得たり,思考・判断・表現をしたり,他者と関わったりする力を獲得していく。このように,言語は,子供たちの学習や生涯にわたる生活の中で,極めて重要な役割を果たしている。
・言語能力は,国語科や外国語科のみならず,全ての教科等における学習の基盤となるものである。例えば,「論点整理」が提示した資質・能力の三つの柱に照らせば,以下のように考えることができる。
1 個別の知識・技能
・学習内容は,多くが言語を用いて表現されており,新たな知識の獲得は基本的に言語を通じてなされている。
・言語を通じて,知識と知識の間のつながりを捉えて構造化することが,生涯にわたって活用できる概念の理解につながる。
・具体的な体験が必要となる技能についても,その熟達のために必要な要点等は,言語を用いて伝えられ理解されることも多い。
2 思考力・判断力・表現力等
・教科等の本質に根ざしたものの見方や考え方の獲得は,各教科固有の学びのプロセスを通じて行われる。このプロセスにおいては,情報を読み取って吟味したり,既存の知識と関連付けながら自分の考えを構築したり,目的に応じて表現したりすることになるが,いずれにおいても言語を通じて行われる。
3 学びに向かう力,人間性等
・子供自身が,自分の心理を意識し統制していく力や,自らの思考のプロセスを客観的に捉える力(いわゆる「メタ認知」)の獲得は,心理や思考のプロセスの言語化を通じて行われる。
・言語を通じて他者とコミュニケーションをとり,相互の関係を築いていくことにより,思いやりや協調性などを育むことができる。
→言語は,全ての教科等における資質・能力の育成や学習の基盤として重要な役割を果たしており,言語能力の向上は,学校における学びの質や,教育課程全体における資質・能力の育成の在り方を左右する,重要な課題として受けとめる必要がある。
因みに,引用文中の「いわゆる「メタ認知」」は当塾の基本的な実践項目である「〈相対化〉」の一側面を意味しており,この営為も「言語を通じて」行われるものであることが分かります。また,当塾の基本理念である〈恕(=思いやり)〉も「言語を通じ」た「他者とのコミュニケーション」により育まれるものであることを確認しておかなければなりません。
ところで,かつて私は「青天の霹靂 ― 一人ひとりが輝く育児 ― 〔第1回〕」(小桝雅典,当塾公式ホームページ,2018.5.14)で,次のように指摘したことがあります。
教育のみならず,
人の営為はすべて〈言葉〉で紡がれています。
誰しも,脳裏でものを考えるときには,
〈言葉〉で考えているわけです。
他者の「言葉」を聴き,自らの脳裏のスクリーンに描かれるイメージも,
〈言葉〉によって再構築されているわけです。
だから,脳裏に蓄積される〈言葉〉の数が多いほど,
深く・幅広くものを考えることができるのです。
極端な例ですが,3つの〈言葉〉しか持たない脳よりも,
100個の〈言葉〉を持つ脳の方が,考えが深く・広いはずなのです。
勿論,知としての〈言葉〉を活用・運用できての話ですが。
育児も〈言葉〉で織りなす尊い営為だと思います。
育児にかかわる,特に保護者が〈言葉〉豊かに,優しく,
乳幼児(こども)に表情豊かに語りかける。
乳幼児(こども)は,その保護者の〈言葉〉と表情を感知する。
万一,保護者の〈言葉〉がいわゆるボキャ貧だったら……
仮に,表現(パフォーマンス)力に不足していたら……
これは「ボキャ貧」の「保護者」を揶揄する目的の文章ではありません。要するに,私はこの文章によって,〈言語能力・言語運用能力を鍛錬する重要性〉を指摘しようとしたのです。自己に係る〈言語能力・言語運用能力の鍛錬〉は自己存在の枠組みで収まることなく,自らのこどもを含める他者の〈言語能力・言語運用能力〉に影響を及ぼします。
まだ研究途上の「ミラーニューロン」。
人の場合,新生児から生後12か月頃までに発達すると考えられているようですね。
・他人の動作を見て,自分のことのように共感する。
・他人の意図を理解して,次の行動を予測する。
・言語を獲得する。
などの機能があるとか。
仮に,こうした研究の結果が〈真〉であるならば,
乳児の教育は重要な意味を持ってくると考えられますよね。
朝,しんどくても,保護者が笑顔でいる効果とは? ―「礼」? 「ミラーニューロン」?―(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2018.5.23)
ミラー‐ニューロン(mirror neuron)
他者のある動作を見たとき,自分もその動作をしているかのように反応する神経細胞。霊長類のマカク属で発見され,ヒトにおいても同様の脳神経活動が見られる。他者の模倣を通じ,他者の意図の理解や言語の獲得に役立ち,共感などと深い関わりがあると考えられている。
一人ひとりの人間の〈言語能力〉と〈言語運用能力〉が鍛えられれば,それぞれが帰属する各種共同体の〈言語能力〉と〈言語運用能力〉は高まり,延いては,それはその時代に住まう各種共同体の「問題解決能力」,「思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)」及びそれらを「継続する能力」並びに「豊かな感性(人間関係形成能力)」を高め,高次の文化・文明を紡ぐことにつながっていくのです。
事は重大です。
そこで,〈言語能力〉と〈言語運用能力〉の定義を確認しておきましょう。
まず,〈言語能力〉について,当塾の「地頭」の定義と通底する概念が,先程ご紹介した中央教育審議会 初等中等教育分科会 教育課程部会 言語能力の向上に関する特別チームによる「整理メモ」にまとめられており(平成28年1月13日),――確定稿ではないことを念押ししておきます。――また,『大辞林 第三版』の解説と読み合わせると,より良く理解できるのではないかと思いますので,それらを引用しておきます。
1.言語能力について
言語の果たす役割は,これまでの各種会議等の議論の成果を踏まえ,以下の三つの側面から捉えることができる。
1 創造的思考(とそれを支える論理的思考)の側面
2 感性・情緒の側面
3 他者とのコミュニケーションの側面
げんごのうりょく【言語能力】
ある言語の話し手が母語についてもっている言語構成能力や知識。「言語運用」と対比される。チョムスキーの用語。
一瞥すると,「創造的思考(とそれを支える論理的思考)」と「他者とのコミュニケーション」は当塾の「地頭」の定義における「問題解決能力」の領域に整理されており,「感性・情緒」は「豊かな人間関係形成能力」に整理されていることが分かります。また,「言語能力」として「感性・情緒」を採り上げていることは,先程来,指摘してきているように,「言語―意識(感性・情緒)」関係を「意識が言語に先立つのではなく,言語が意識に先立つ」とする同一の思考の台座で思考していると言って過言ではないでしょう。――ソシュールやウィトゲンシュタインが提唱した言語観が構成した20世紀的な「知」の枠組みから考えれば,当たり前のことですが。――さらに,引用文には「言語には,具体的な発声や文字による言語活動である一般的な言語(外言語)の機能のほか,音声や文字を伴わない,思考や概念,それらの体系の獲得・操作を行う内なる言語(内言語)の機能があり,三つの側面のいずれにおいても,これらの機能が働いていることに留意する必要がある。」との脚注が付されており,〈言語運用〉との比較の側面からも特筆すべき内容であることを指摘しておきたいと思います。
続いて,〈言語運用能力〉の定義です。『大辞林 第三版』の解説(コトバンク:言語運用(読み)げんごうんよう 出典 三省堂)の一部を拝借すれば,「ある言語の話し手が母語の知識(言語能力)を時間軸に沿って用いる能力」,「実際の言語行動を可能とする能力」ということができます。
これで,「言語能力」と「言語運用能力」との連関が明らかになるはずです。語弊を恐れず,端折って,端折って,平易に述べれば,言語構成能力や知識(言語能力)を用いる能力が「言語運用能力」ということです。また,「言語運用能力」には,「言語」を「運用」する「意欲・関心・態度」を含めて考えるべきだとも思います。
ただ,ここで新たな疑問として,「言語運用能力」と「コミュニケーション能力」との相違が浮上してくると思いますので,分かりやすい解説をご紹介しておきます。
言語運用能力とコミュニケーション能力との違いは,前者は文字通り言語の運用に焦点を当てたもの,後者はそれに加えて,ジェスチャーや顔の表情,アイコンタクトといった非言語的要素(非言語的要素による意思疎通を非言語コミュニケーション,あるいはノンバーバルコミュニケーションといいます。)やコミュニケーション前後の文脈に対する理解や配慮などまで含まれている,という点に違いがあります。
言語運用能力は,さらに語彙レベル,文レベル,談話レベルの運用能力に分けることができます。
篠﨑大司(SHINOZAKI DAISHI):キーワード解説「け」 言語運用能力(げんごうんようのうりょく),日本語教師篠崎大司研究室
このように考えて来ますと,当塾が定義する「地頭」を「鍛」えるには,(乳)幼児期からの〈言語能力〉と〈言語運用能力〉の鍛錬が重要であり,こどもたちにかかわる保護者を含めた周囲の大人たちの存在は,換言すれば,周囲の大人たちの〈言語能力〉と〈言語運用能力〉はこどもたちの成長に多大な影響を与えるという結論に至るのです。したがって,繰り返しますが,事は重大なのです。――事の重大さの詳細については,別の機会に述べることにしますが,だから,私には現代の「ブログ言説」が気になって仕方がないのです。そこで,当塾のシリーズ物ブログ「The パクるな!!」の中で,「ブログ言説」の〈相対化〉を試みようとしているのです。(頁末の「関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ」をご覧ください。)――
要するに,「地頭」を「鍛」える(=「鍛地頭」)とは,乳幼児から大人までの〈言語能力〉と〈言語運用能力〉を鍛えることなのです。また,それは「創造的思考(とそれを支える論理的思考)力」,「感性・情緒」及び「他者とのコミュニケーション能力(〈対話力〉)」を育てることでもあるのです。
それが当塾を「鍛地頭-tanjito-」と命名した所以なのです。
令和元年6月1日(土)
【関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ】
※ⅰ 文部科学省は「探究的な学習」として,この学習過程を次のように整理している。
①【課題の設定】 体験活動などを通して,課題を設定し課題意識をもつ
②【情報の収集】 必要な情報を取り出したり収集したりする
③【整理・分析】 収集した情報を,整理したり分析したりして思考する
④【まとめ・表現】気付きや発見,自分の考えなどをまとめ,判断し,表現する
[参考]
〇 文部科学省(平成30年7月):『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 総合的な探究の時間編』
〇 文部科学省(平成25年7月):『今、求められる力を高める総合的な学習の時間の展開(高等学校編) 総合的な学習の時間を核とした課題発見・解決能力,論理的思考力,コミュニケーション能力等向上に関する指導資料』http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/sougou/1338359.htm
※ⅱ 「語りの構造を踏まえた読みの授業に関する研究―古文の授業構築を中心に―」(小桝雅典,1998(平成10)年度 広島大学大学院教育学研究科 教科教育科学専攻 国語教育学 修士論文,※6 「相互主観性」とも言う。「フッサールの用語。複数の主観の間で共通に成り立つこと。事物などの客観性を基礎づけるものとされる。」(『大辞泉』 松村明監修 小学館 一九九五) 「共同主観」も同概念を示すことばである。)
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【過去の「塾長の述懐」シリーズ】
「受験脳(テクニック)」育成の弊害と「鍛地頭」の必要性について〔10〕
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「鍛地頭-tanjito-」
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〇 教育セミナー
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今回から「塾長の述懐シリーズ」の回数を数字(例:今回の場合〔10〕)で表現することにしました。ご諒解ください。
皆さん,こんにちは。
生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典です。
〈学問(探究活動)〉は本当に楽しいものです。
私は前回の「塾長の述懐」シリーズで,次のように記述しました。
「小さな疑問」を含め,自らの脳裡に解決しなければならない問題が宿ったとき,「文献探しの旅」と決め込むことなく,何気なく書店や図書館で手にする書物に,その問題を解決する主たる内容(鍵)が記されていることが度重なるようになりました。
「塾長の述懐 第9回 脱現行受験社会(2019.5.19(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.5.19)…a
こうした現象を「セレンディピティー(serendipity)」と呼びます。
〘名〙 (serendipity) 求めずして思わぬ発見をする能力。思いがけないものの発見。運よく発見したもの。
[補注]イギリスの作家ホレス=ウォルポール(一七一七‐九七)の造語。寓話 The Three Princes of Serendip (一七五四)の主人公にこのような発見の能力があったことによる。Serendip はセイロンの旧称。
コトバンク:セレンディピティー(英語表記)serendipity,精選版 日本国語大辞典
つい,先日のことでした。副塾長の住本が研鑽を積むため,「第1回 発達障害コミュニケーション初級指導者認定講座 」(一般社団法人 日本医療福祉教育コミュニケーション協会)に出向いた時のことです。
講座中,住本は当該の講座で使用されていたテキストを読んでいて,ある記述箇所に目が釘付けとなったのです。
◆食事と多動の関連
食事と多動との関連が指摘されているものの代表格に食品添加物(食色素 Artificial colorings)がある。報告があるものは,sunset yellow FCF(E110),quinoline yellow(E104),carmoisine(E122),allura red E129),tartrzine(E102),ponceau 4R(E124)などがある。また,ショ糖は,直接,ADHDと関連があるわけではないが,摂取後1hrは,気分が落ち着くが,その後で多動性を増すことが知られている。他に,脂肪酸の中で,ω3ω6不飽和脂肪酸の不足に関連があるのではないかという報告も散見する。
『一般社団法人日本医療福祉教育コミュニケーション協会 認定 発達障害コミュニケーション初級指導者テキスト』(河野政樹,一般社団法人日本医療福祉教育コミュニケーション協会,2015.10,p.10,下線は筆者が施しました。)
前回の「塾長の述懐」を綴っていた―本ブログを認(したた)めている約1週間ほど前―私は,「「鍛地頭-tanjito-」のダイエット論」(いずれブログにします。)と絡め,知識注入型教育に偏重してしまった現教育界と受験産業界からのシフトチェンジに係る持論を住本に語る中で,この「食品添加物」や「上白糖(ショ糖が主成分)」(引用中の下線部)について(くどくどと)説明を繰り返していました。
【関連】
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令和元年5月26日(日)
塾長 小桝 雅典
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- 「塾長の述懐 第9回 脱現行受験社会(2019.5.19(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.5.19)
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- 「塾長の述懐 第6回(2019.4.21(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.23)
- 「塾長の述懐 第5回(2019.4.7(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
- 「塾長の述懐 第4回(2019.3.31(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
- 「塾長の述懐 第3回(2019.3.24(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
- 「塾長の述懐 第2回(2019.2.3(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
- 「塾長の述懐 第1回(2018.6.26(Tue.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
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脱現行受験社会―塾長の述懐 第9回(2019.5.19(Sun.))―
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研究熱心な子猫(提供 photoAC)
生きる自分への自信を持たせる
「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典です。
今回のブログは,「塾長の述懐」シリーズの第9弾に当たります。
昨今,「高校の学びの脱画一化」を謳うニュース記事が世間を賑わすようになりました。私が平成15年度に教育系国立大学で講じていた教育の方向性が,残念ながら政治主導ではありますが,漸く実現化の緒に就いた感じです。
今回以降,本シリーズでは,歯に衣着せぬ物言いで〈新しい時代〉の〈教育〉を語ります。
私が大学2年生の頃。
言語学系の講義が終了した直後の休憩時間でした。
「今回の講義の内容(方言学)は興味深いなあ。この講義のテーマに関係のある文献を読んでみたい。いろいろあるのだろうなあ。どんな文献を読めば良いのか,担当のE教官(私たち(旧)国語教育学専修所属)に訊ねてみよう。」
私は自らの学習意欲が腹の底に沸々と湧き上がるのを自覚しながら,そのE教官の許に駆け寄ったのです。E教官は講義で使用された数冊の文献を大風呂敷に収めておられるところでした。
「E先生,私は本日のご講義のテーマにとても強い関心を持ちました。そこで,様々な文献を読んでみたいと思うのですが,ご推薦の文献を紹介いただけませんか?」
私の眼(まなこ)はきっと爛々と輝いていたと思います。その時,私は[学問をしたい。]と思っていました。[推薦してもらった文献を即座に購入しよう。]とも思っていました。
ところが,E教官からの回答は予想をしていなかった恫喝だったのです。
「君は何を考えているんだ!! 文献を紹介して欲しいとは何事だ!!」
瞬間,私の頭頂部に勁烈な電気が走り,脳裡は真っ白になりました。何が起こったのかさえ理解できませんでした。休憩時間に入り,雑踏と化していた講義室は水を打ったようにしんと静まり返りました。E教官はいつもにこやかに,そして温かみのある上品な声質で,ゆっくりと丁寧に一語一語を噛み締めるように話される方でした。にもかかわらず,どの学生も耳にしたことのない怒声,いや,罵声に近い大音声が割りと広い講義室に響き渡ったのです。
「文献を探すことから研究が始まるのだ!! 私に一々訊ねるのではなく,君の足で文献を探しなさい!! 君はここ(筆者注:大学)に何をしに来たのだ!! 研究しに来たのではないのか!!」
瞋恚(しんい)に燃える鬼の形相とはこのことなのでしょう。一生忘れることのできないご尊顔でした。私は,ただ只管,未だに身体(からだ)を突き抜けることのない獰猛(どうもう)な電気をジンジンと宿したまま,そこに立ち尽くすしかありませんでした。
書籍(提供 photoAC)
E教官の仰ったお言葉の意味が痛いほど身に染みて解るのは,それから2週間後のことでした。私は,その間,私自身が納得できる文献を探し歩いていました。今のように,ネット注文などない時代です。文字どおり,研究室内の書庫,大学や公営の図書館,そして専門書を数多く置く古本屋や書店などに足繁く通いました。ですが,このように「私自身が納得できる文献を探し歩いてい」るということは,つまり,私自らが設定した講義内容に関するテーマ性を有する書籍になかなか出くわさなかったことを意味しています。ですから,2週間もの間,私は立ち読みを含め,貸出が許された書籍を読み漁っていました。専門書の末尾に一覧となった「参考(引用)文献・論文」を頼りに,専門書の「はしご」を重ねたのです。
お陰で,自らが設定したテーマの近辺にある数多くの文献や論文,勿論,それらの内容も脳裡に蓄積されていきました。2週間後には,そのテーマ性に関する研究(対象)について,一端(いっぱし)の蘊蓄(うんちく)を語ることができるようになっていたのです。ただ,飽くまでもそれらの研究結果の一端(いったん)ですが。
しかし,「私自身が納得できる文献」に,そうは簡単に出逢うことはできませんでした。そして,その後,仮に「自らが設定したテーマ」が私自らの研究テーマであったとしたならば,こうした―言葉は不適切ですが―「読み漁り」が「先行研究」の一側面であることを,本格的に研究を志すようになって知ることとなるのです。
私は,その時,E教官に「研究」が如何なるものか,その一端を教えていただいたのでした。
ですから,それ以降,私は講義云々にかかわることなく,自らの内に生起した「小さな疑問」に対しても,それを解決するために,「文献探しの旅」に何度も出掛けました。あの鬼の形相をいつも想起しながら。
いつしか「文献探しの旅」は習慣化していきました。そうしているうちに,私の身に奇妙なことが起こり始めました。主な2点を挙例します。
1点目:「文献探しの旅」を始めてから「私自身が納得できる文献」に出逢うまでの時間が短くなりました。
2点目:「小さな疑問」を含め,自らの脳裡に解決しなければならない問題が宿ったとき,「文献探しの旅」と決め込むことなく,何気なく書店や図書館で手にする書物に,その問題を解決する主たる内容(鍵)が記されていることが度重なるようになりました。
1点目は2点目に含有されていますが,特に,2点目のような現象が現実に生起することについては未だに「Incredible(信じられない)!!」な思いです。神懸かり的(serendipity)です。それは現在でも,時折,生起しているのです。
八王子 [Hachioji]-018(提供 photoAC)
私がE教官から頂いたお言葉「誠実の美徳」と「学縁」。
果たして,その意味とは?
学位記(提供 photoAC)
本ブログは全て事実に基づいて構成してありますが,決して私の自慢話が目的ではありません。本ブログを認(したた)めた私の意図(目的)は,まず「SUMMARY」にまとめてあります。それに付随して言えることは,仮に「令和」を「新しい時代」と捉えるならば,その「新しい時代」の「教育」は既にパラダイムシフトしているということなのです。詳細は,次回に譲ることにしますが,要するに,
「地頭」を「鍛」える〈教育〉
が模索され始めたということなのです。ただし,語弊を恐れずにこのように述べましたが,「「地頭」を「鍛」える〈教育〉」の模索は,何も今始まったのではなく,古く昭和20年代から始まっていることなのです。ただ,概括すれば,そうではない「教育(≒系統学習,知識の注入に偏重した教育)」にシフトし過ぎていたために,こどもたち(延いては,大人たち)の「地頭」が「鍛」えられなかっただけなのです。そして,そうした悪しき状況を推進していたのが(日本の)「入試制度」という名の社会システムだったのです。主に知識量の多さと入試問題を解く受験テクニックを評価の対象とする試験制度と言って過言ではありません。一人ひとりのこどもの身の周りに生起する日常的な問題を解決するため,インプットした/している知識(情報)を脳内でどのように引き出し・組み立て(構造化し),アウトプットするかといった能力を計る試験ではなかったのです。―抑々(そもそも),そうした能力を計る「試験」が本当に必要なのかといった問題もあります。―「東大・京大が日本で1,2位の大学ではなくなる時代が到来する。」と識者たちが予言するのは,そうした理由に由来します。〔【関連】b,c参照〕
こうした「入試制度(受験社会)」は複雑に絡み合うコンテクストで構造化された社会(システム)を多角的・多面的・総合的な〈視点〉から解きほぐす能力を,ポストモダンを生きた私たちから奪い去ってしまいました。つまり,極論すれば,「1+1=2」になることを知識(量)として持つ人間が優れていると判断される言説の権威性に回収されてしまい,「1+1」がなぜ「2」になるのか,「1.5」でも「3」でも良いのではないかと思考するこどもたちは低評価を受ける結果となったのです。
しかも,それは,コンビニ弁当をしゃかりきになって食べながら,身体の健康(ダイエット)を唱える社会現象と通底しています。というのは,身体の健康(ダイエット)には加工食品が最も良くない,自然から与えられた新鮮なキャベツに包丁を入れることさえ「加工」だとの説がある中,せっせと身銭を支払って,地球上で最たる加工食品(添加物いっぱい)であるコンビニ弁当を食べる,つまり,お金を払って身体に毒を盛るのと同様に,せっせと大金を支払って「地頭力」を弱める,知識偏重型の受験テクニックだけを教える予備校や進学塾等に(嫌がる)こどもを通わせているからなのです。それでいて,(多くの)大衆(大人)はそのことに気づいていない。なぜならば,そうした大人も「複雑に絡み合うコンテクストで構造化された社会(システム)を多角的・多面的・総合的な〈視点〉から解きほぐす能力」を削ぎ落す「入試制度(受験社会)」の落とし子だからです。―(多くの)教職員も然り。―そして,日本の「教育」は世界から大きく立ち遅れました。至極当然の結末です。
ですが,そうしたパラダイムは,今や移行(シフト)しつつあります。しかも,政治主導で(笑)。この辺りの事情についても,今後の本シリーズで具体化していきます。
最後に,とても重要なこと(本ブログを執筆する目的)を一つ付け加えて擱筆したいと思います。
それは,
「地頭」を「鍛」え,「地頭力」の高いこども(延いては,大人)を育てるためには,「研究ができる(ような「地頭」を有する)こども(大人)」を育てないといけない。
ということなのです。そして,それはどのこどもでも可能なことなのです。ただし,高い「地頭力」を持った指導者がいればの話ですが。
wedding(提供 photoAC)
運命とは本当に摩訶不思議なものです。
ある日,私は従弟のウェディングに招待され,指定の席に着きました。大学院を修了して,2~3年後のことだったでしょうか。
宴が始まる直前のことです。どこかで聞き覚えのある,温かみのある上品な声質で,ゆっくりと丁寧に一語一語を噛み締めるように話される招待客がいらっしゃることに気づきました。その声の主は,どうやら私の真後ろのテーブルにいらっしゃるようです。
瞬間,私の身体は意志に反して,後ろを振り返っていました。
そこには,同じように,後ろを振り返るE教官の姿があったのです。
そうです。E教官は私の従弟の花嫁にとっては叔父に当たる人だったのです。それをE教官と私は,ウェディングのその日まで知る由もなかったのです。
初めて拝見するE教官の照れたご尊顔を拝しながら,私は「学縁」の二文字を思い出していました。
当塾は「地頭」を次のように定義しております。したがって,本ブログ中に散見される「地頭」は,その定義を反映しているとお考えください。
- 問題解決能力(自らの身辺に生起する問題を発見し,その解決方法を自分の頭で思考・判断し,実践〔表現〕できる能力)
- 「思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)」を継続できる能力
- 豊かな人間関係形成能力(乳幼児から大人に至るまでの「人(の存在)」を心から愛する豊かな感性)
詳しくは,当塾公式ホームページの「「地頭(じあたま)」の定義」をお読みください。
- 「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第1回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2018.12.29)…a
- 「「賢い子を育てる」って!?―「東大・京大合格」と連結する言説を〈相対化〉する―」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2018.11.1)…b
- 「えっ!? 「賢い子を育てる」だって!?」(小桝雅典,当塾公式ホームページ,2018.11.1)…c
平成31年5月19日(日)
塾長 小桝 雅典
当塾へのご質問・ご意見については,次の「お問い合わせフォーム」をご利用ください。
- 「塾長の述懐 第8回 脱自我中心主義(2019.5.5(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.5.6)
- 「塾長の述懐 第7回(2019.4.28(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.28)
- 「塾長の述懐 第6回(2019.4.21(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.23)
- 「塾長の述懐 第5回(2019.4.7(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
- 「塾長の述懐 第4回(2019.3.31(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
- 「塾長の述懐 第3回(2019.3.24(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
- 「塾長の述懐 第2回(2019.2.3(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
- 「塾長の述懐 第1回(2018.6.26(Tue.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
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指導を共有する「保護者―学校」間の連携ー軽度自閉スペクトラム症の息子の場合―
生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」副塾長の住本小夜子です。
新年度となり,早いもので既に1か月が経過しました。
振り返ってみれば,軽度自閉スペクトラム症の小学校2年生となる息子の進級に際し,正直なところ,私には一抹の不安があったのです。そして,その不安は現実のものとなりました。新学期早々,私は息子の通う学校へ出向くなど,バタバタと走り回る日々を送っていたのです。
息子の「こころ(頭の中)」にはある異変が起きていました。
【目 次】
- 1 「学校の変化」への対応
- 2 進級はリセット?
- 3 学校との連携
- 4 知ってもらうことから始まる
- 【塾長追記―本ブログに認めてある副塾長の言動について―】
- 【「鍛地頭-tanjito-」の教育論(特別支援教育(家庭療育))関連ブログ記事】
1 「学校の変化」への対応
息子に起こったその心理的変化とは?
そして,私が取った行動とは?
平成31年3月末。学校から頂いた配付資料により,先生方の異動が明らかとなりました。小規模校にもかかわらず6名もの先生方が異動となられ,私には息子が進級した際の(学校の)環境が大きく変化することが予想されたのです。
学校全体の雰囲気がガラリと変わるが,それを息子は受け留めることができるのか?
その点に不安を抱いた私は,ある日,息子を呼び寄せ,学校からの配付資料を見せながら説明を始めました。
「〇〇先生,おられなくなるんじゃね。」
「△△先生も…。」
「〇〇先生や△△先生がいらっしゃらなくなっても,新しい先生が来られるからね。」
私の声かけに対し,意識した風に毅然とした態度で「分かっとるよ。」と答えた息子。お世話になった先生方が学校を去って行かれることに淋しそうにしていましたが,「パニックにはならない」と息子の様子から察することができました。
そして4月を迎えました。
黄色のカバーを外したランドセルを背負って,息子は意気揚々と登校して行きました。
ですが,その「こころ(頭の中)」には,私が想定していたとおりの変化が生じていたのです。
2 進級はリセット?
2年生になって担任の先生も替わられ,親子で心機一転,頑張っていこうと誓い合いました。しかし,息子は心機一転しすぎてしまったのです。それまでの経験までもリセットされてしまったのです。つまり,1年次に取り組み,身に付けていたはずの学校や家庭での守るべきルールなどが,完全にリセットされた状態になっていたのです。
「先生が替わられる」という話を息子に伝えた際,母子(おやこ)で「今までやってきたことは,2年生になっても(継続して)やります。」と確認していたにもかかわらず,なぜこのようなことが起きてしまうのか?
「3月の終わりに,「1年生の時,学校でトレーニングしてきたことは,2年生になっても(継続して)やります。」と話した(=私が息子に確認した)のを覚えていますか?」という問いに対し,「…そうだった!!」と息子は答えたのです。この瞬間,なぜリセットされたのかを仮想することができたのです。
発達障害を含めた各種精神疾患は,脳機能障害です──そして,私(筆者注:澤口氏,以下同様)の研究成果のひとつである「HQ論」を援用すれば,その大多数は「HQ障害症候群」です。
澤口俊之(2016.3):『発達障害の改善と予防 家庭ですべきこと,してはいけないこと』,小学館eBooks,電子書籍版…a http://a.co/2hw6i8S
HQとは「人間性知能」の略称で,私が提唱した「脳科学的な知能」です。HQには色々な脳領域が関与しますが,中心は前頭前野です。
前掲書a http://a.co/a34q2mi
HQ(Humanity/Hyper-Quotient)とはIQ(知能指数)にかわる指標で「人間らしさの知能」のこと。このHQを司る脳領域のことを「前頭連合野」といい,人の額のすぐ内側に位置しています。論理数学的知能,空間的知能,言語的知能などさまざまな知能をコントロールする役割があります。その前頭連合野は,未来志向性や社会性,対人関係能力,高度な思考力も司っており,人間らしい社会生活を営む上で重要な役割を担っています。このHQこそ,脳の成長期である子どもの時期に育むべき,「生きる力」そのものなのです。
若菜会:「人間らしさの知能,HQ」<「HQと,生きる力」
https://welcome.zenkyoken.com/wakanakai/hq/
HQ論から見れば,発達障害はHQ障害症候群です。つまり,全ての障害児でHQ用の神経システム(脳間・脳内操作系)に障害があります。このことからも予想できるように,ほぼ全ての発達障害でワーキングメモリが低下しています。
前掲書a http://a.co/5MJvCgS
ワーキングメモリは「意味のある情報を一時的に保持しつつ適切に操作する脳機能」のことで,前頭前野の神経システム(HQ用神経システム=脳間・脳内操作系)の中心ともなっています。したがって,ワーキングメモリの能力は人間性知能HQの根幹でもあります。
前掲書a http://a.co/57vft1h
私には,上記の引用のように,神経発達症(発達障害)の原因が「ワーキングメモリ」の(機能)低下にあるのではないか」という知識はありました。この知識も脳科学の一研究の結果ですから絶対的なものであるとは言い切れませんが,ただ「知識」としては持ち合わせていたのです。
また,日常の息子の言動にも,今回のケースの原因を想像させるような類似の出来事が度重なっていたのです。したがって,前述の「知識」に併せ,そうした情報を帰納的に扱えば,次のように考えることができたのです。―飽くまでも私の考えであって,科学的に立証されているものではありません。したがって,息子が定期的に通っている療育センターの主治医と連携する必要があります。「生兵法は大怪我の基」であり,この場合,「大怪我」をするのは息子ですから。また,こうした状況は息子に特有のものである可能性もあり,だから「(息子の)特性」として認識できるものです。つまり,一概に普遍化できるものではないということです。無論,他のお子様にも息子と共通の「特性」を持っておられる方もおいでのことと拝察しますが。―ただし,結論から述べれば,「ワーキングメモリ」と「神経発達症」との関係については,よく分かっていないのが現状のようです。
【仮説】
息子の「こころ(頭の中)」では,自らの興味関心に合わせ,瞬時に「これだ!!」と感じた情報だけが強烈にインプットされ,それにより,他の短期・長期の記憶が引き出されにくいという事態が起こる(低下しているワーキングメモリーが原因か?)。今回の場合,息子の「こころ(頭の中)」に最も強烈にインプットされた情報は「2年生になった!! (≒1つ上級生になった。=後輩ができた(お兄ちゃんになった)。」であり,これに起因して,1年次に積み重ねていたトレーニングの情報が引き出されにくくなってしまった。
ワーキングメモリの弱さと発達障害の特性は、その症状に共通点も見られます。
発達障害とは,生まれつきの脳機能の発達のアンバランスさ・凸凹(でこぼこ)と,その人が過ごす環境や周囲の人とのかかわりのミスマッチから,社会生活に困難が発生する障害です。発達障害があると,不注意で衝動的な行動や,読字や書字の苦手といった症状が見られますが,ワーキングメモリが弱い場合に出る症状に似ています。そのため,何らかの関連があると考える専門家もいます。
ただしこの二つの関係性については「発達障害の診断が下りている子どもはワーキングメモリの数値が弱い傾向にある」というデータがあるのみで,関連を決定づける研究結果はまだありません。
「ワーキングメモリと発達障害の特性の関係 」<「ワーキングメモリとは? 生活に不可欠な役割,発達障害との関係,調べ方,対処法をご紹介!」:LITALICO(りたりこ)発達ナビ,監修;井上雅彦 鳥取大学大学院医学系研究科臨床心理学講座教授,下線は筆者が施しました。以下,引用文中の下線は同様です。…b
息子は自閉スペクトラム症であるとともに,注意欠如・多動症の不注意優勢型(ADD)なので,こうした特性と「ワーキングメモリ」との連関性について記述してある参考資料を引用しておきます。
(前略)不注意と衝動性の特性による「注意すべきことの判別が付かない」「忘れ物が多い」「気が散りやすい」などの困りごとは,ワーキングメモリの機能の弱さによって,情報を一時的に記憶したり整理する <ママ> ことが苦手なことが関連しているのではないかとも考えられています。
「ADHD(注意欠陥・多動性障害)」:前掲資料b
そこで,幼稚園から続けている家庭での「だいじなやくそく」も併せて,―息子の「こころ(頭の中)」で引き出されにくいと考えられる情報となっていたので,―改めて継続して取り組むことを確認したのです。
また,この状態に早急に対応すべく,学校(担任の先生)に連絡し,学校で担任の先生(実際には,教頭先生も同席してくださいました。)と私とで個人面談(情報連携)をしていただけるようにお願いしました。
「学校―家庭」間において,統一した〈指導〉が大切だからです。
息子には一時に数多くの情報を処理することに難があります。今後,息子を取り巻くであろう様々な場面・状況(環境)にあって,選択と集中の考え方を持って情報を一元化しておかないと,指導の方向性が異なれば,息子は混乱を来してしまうのです。そうした考え方(対応法)は息子が通う放課後等デイサービスとの間でも同様でした。
「学校―放課後等デイサービス―家庭」間での洗練された情報による統一した〈指導〉が不可欠だったのです。
3 学校との連携
【連携の目的】
- 学校(特に新しい担任の先生)に息子の現状や特性について認識していただく。
- 息子の特性などに対する適切な対応などを知っていただく/検討する。
- 今後,「学校―家庭」間による日常的な情報連携をお願いする。
学校も早急に対応してくださり,教頭先生及び担任の先生との面談(情報連携)となりました。これに伴い,私は配付資料を作成し持参しました。その目的は次のとおりです。
【配付資料作成の目的】
- (学校内で息子の情報の引継ぎはあったであろうが,)1年次の情報を引き継ぐ。
- (「学校―家庭」間での統一した〈指導〉を行うため,)家庭から厳選した指導事項を依頼する。
- (伝達する情報量が多く,新しい担任の先生であったので,)情報を整理し視覚化することにより,面談(情報連携)を円滑に進める。
- (今後も「学校―家庭」間で連携を継続するため,)連携資料として保存・活用する。
なお,個人情報としての連携事項が直截表に現れない(=人目に付かない)ように表紙を付け,「取扱注意」を朱書きしました。また,先生方が連携(情報交換)中にメモを取りやすいように,ページの右端にメモ欄を設けました。
さらに,資料は4部用意しました。同席してくださる教頭先生及び担任の先生は無論のこと,校長先生用と私用です。校長先生には教頭先生から手渡していただきました。
学校と家庭との連携資料1
学校と家庭との連携資料2
学校と家庭との連携資料3
※ 上記「連携資料」の具体的な内容については,こちらをお読みください。
連携資料に記載した内容(構成)は,次のとおりです。
1 息子の特性(「自閉スペクトラム症」と「注意欠如・多動症―不注意優勢型」)について
2 徹底して指導していただきたい事柄について
3 「学校―放課後等デイサービス―家庭」間での連携:「2」よりも上位の概念にある指導事項)
4 1学年次に取り組んだこと
5 2学年次に取り組んでいただきたいこと
さらに,この連携資料に「鍛地頭-tanjito-」のブログ記事を2つ(【関連】参照)と,『生徒指導提要』(文部科学省,平成22年3月)から「第2節 発達に関する課題と対応」(「Ⅱ 個別の課題を抱える児童生徒への指導」,冊子版 pp.160-163)を添付しました。資料を添付した理由は,1時間という面談(情報連携)の限られた時間の中で提供する情報も限られるため,家庭での息子の状況(情報)を補完するためです。
【関連―連携資料に添付したブログ記事】
連携資料があったから,時間を焦ることなく,円滑に淡々と息子についての情報連携ができたと思います。私は最後に「(息子の学校での指導において)難しい点はもちろん,些細なことでも構いませんので,いつでもご連絡ください。」とお願いし帰宅の途に着きました。
後日,早々に上記の連携資料を息子が通う放課後等デイサービスにも配付しました。学校でどのような連携をしたのかについて知っていただき,放課後等デイサービスでも同じように指導していただくことになりました。
さらに,学校及び放課後等デイサービスとの連携において,私は次のことを要望しました。
連携した情報を教頭先生及び担任の先生並びに放課後等デイサービスの担当者だけに止(とど)められることなく,学校の全教職員,放課後等デイサービスの全職員間で共有していただきたい。
「学校―放課後等デイサービス―家庭」間で,ブレのない徹底する,統一した〈指導〉があるからこそ,息子の日常的な混乱を防ぐことができ,「してはならないこと」「守らなければならないこと」をあらゆる場所(環境)で学ぶことができるのです。
そして私は,息子とかかわってくださる周囲のお子様(お友達)と保護者様にも,息子について知っていただく必要があると考えていたのです。
4 知ってもらうことから始まる
1学年次,些細なことでお友達とトラブルになったり,特性のため,周囲のお友達に迷惑を掛けてしまったりといったことがあった息子。その都度,今後の対応について息子と共にしっかりと話し込んだり,担任の先生等と連携を取らせてもらったりしていました。しかし,息子の状況(非定型であること)を何も知らないお子様や保護者様からしてみると,「融通が利かない子」「なんでこんなことをしなくちゃいけないの?」といったお気持ちがあったであろうことは容易に拝察されるのです。それは無理もありません。一方,息子本人からしてみれば,「僕の何がいけないの…?」といった周囲に対して反駁したり当惑したりする思い(非定型の人が定型の人に対して持つ一般的な気持ち)とか,「僕は何回言われてもできない…。」といった劣等感や悔しさとか,こうした気持ちを綯交(ないま)ぜにした表情を浮かべていたことも,また事実でした。
そこで,事前に息子と担任の先生の了解を得たうえで, 1年生最後の学級懇談会において,私は「息子は軽度の自閉スペクトラム症である」と保護者の皆さまに公表したのです。「自閉スペクトラム症」の特徴,息子の現状及び対応の仕方等についても説明させていただきました。なぜならば,息子が通う小学校は小規模校であるため,お友達とは卒業するまでずっと同じクラスであり,息子の状況を知っていただくことが,息子だけではなく,皆さまのためになると考えていたからなのです。
同じ考え方で,2学年最初の学級懇談会においてもお話をさせていただきました。
【学級懇談会でお話した内容】
- 息子の現状(軽度の自閉スペクトラム症であること)
- 「自閉スペクトラム症」について
- 息子本人も自閉スペクトラム症であることを理解していること
- そのために,日々,苦手な行動等を克服するトレーニングを行っていること
- そして,皆さまに「自閉スペクトラム症」を理解していただく意味について知っていただきたいこと
こども同士のトラブルがなく,友好なコミュニケーションを図るためには,まずは大人同士が神経発達症等について正しい知識を身に付けることが必要です。そうすれば,(大人同士を含めて)事前にこども同士のトラブルを回避することもできますし,仮にトラブルが起きた場合でも,正しい対応や指示ができるようになります。
自閉スペクトラム症の人たちは、特性を周囲に理解してもらいにくく、いじめ被害に遭う、一生懸命努力しても失敗を繰り返す、などのストレスがつのりやすいため、身体症状(頭痛、腹痛、食欲不振、チックなど)、精神症状(不安、うつ、緊張、興奮しやすさなど)、不登校やひきこもり、暴言・暴力、自傷行為などの「二次的な問題(二次障害)」を引き起こしやすいといわれています。そうなる前に家族や周囲がその子の特性を正しく理解し、本人の「生きづらさ」を軽減させて二次的な問題を最小限にとどめることが、自閉スペクトラム症への対応の基本となります。
「息子は軽度の自閉スペクトラム症なのです。」と話すと,「こどもの前で言っても大丈夫?」と小さな声で訊(たず)ねられることがあります。「大丈夫です!! 息子自身も自分が自閉スペクトラム症と分かっていますから。」と私は胸を張って答えます。抑々,なぜ,「自閉スペクトラム症」ということを隠す必要があるのか? 「自閉スペクトラム症」であることは悪いことなのか?
飽くまでも私の考えですが,「隠す」という行為は,例えば,息子の場合,「〈息子自身(存在)〉を隠す」ということであり,「〈息子の存在〉を認めない」ということにつながります。
仮に,(私が)申し訳なさそうに,消え入りそうな声で,息子についてのひそひそ話をすれば,その様子を見た息子は「自閉スペクトラム症(の人)は悪いんだ…。」と卑屈になり,「(自らを)申し訳のない(存在)だ」と思い込んで,人前に出ることを嫌がるようになると思われます。
保護者が殻に閉じこもってしまえば,こどもも必然的に殻に閉じこもってしまいます。保護者が正しい知識と経験(理論に裏打ちされた実践)を持って堂々と胸を張ってこどもの前に立てば,こどもも日々のトレーニングは無駄ではないと理解し,堂々と胸を張って前に立つことができます。
最も息子の近くにいる私が堂々と胸を張って,笑顔で過ごしていることが,息子にとっての自信となり力となる基盤の一つなのです。それとは逆に,「僕は自閉スペクトラム症だけど(/だから)大丈夫!!」と,息子が毎日笑顔で過ごしてくれることが,私の生きる糧にもなっているのです。
発達障害のある児童生徒の保護者も大きな不安を抱えています。我が子への期待感や気持ちの焦りから、苦手なことを無理強いしたり、注意や叱責を繰り返したり等、誤った対応が続いてしまうこともしばしばみられます。できないところにばかり目がいき、児童生徒の良さを認める機会が少なくなってしまいがちです。認められるよりも叱られる機会が多いほど、児童生徒は不安定さを増し、適応状態がさらに悪化してしまいます。
(中略)特に、行動面に課題を抱えている児童生徒の場合は、しつけや養育の問題を指摘されることが多く、保護者自身も子育てに自信を失い、孤立している場合が多く見られます。
保護者が担任や学校に相談する気持ちを持てるかどうかは、そこに信頼関係があるかどうかです。日常的に情報交換を行い、保護者と教員がお互いに話しやすい関係をつくっておくことが大切です。学校が家庭の問題を指摘し、保護者が学校の対応への不満を述べるのでは話合いになりません。学校の考えを一方的に押し付けるような対応ではなく、保護者の考えを十分に受け止めながら、児童生徒の情報を共有し、適切な対応について一緒に考えていく姿勢が肝心です。
「保護者との協働」(「第2節 発達に関する課題と対応」,『生徒指導提要』,文部科学省,平成22年3月,冊子版 pp.162-163)
県教委で本県の先頭に立ち,生徒指導を推進してきた塾長は言います。
「神経発達症の児童生徒に多く見られる次のような状況がある。」
障害特性によるつまずきや失敗がくり返され、学校生活に対する苦手意識や挫折感が高まると、心のバランスを失い、精神的に不安定になり、様々な身体症状や精神症状が出てしまう等、二次的障害として不適応状態がさらに悪化してしまう場合があります。二次的障害としての症状には、不登校や引きこもりのように内在化した形で出る場合、暴力や家出、反社会的行動など外在化した形で出る場合などがあります。うつ病や統合失調症などの心の病気にかかる場合もあります。虐待の原因になっている場合もあります。
「3 二次的障害の早期発見と予防的対応」(「第2節 発達に関する課題と対応」,『生徒指導提要』,文部科学省,平成22年3月,冊子版 pp.161-162)
「ただ,二次的障害として,こうした(上記引用:「3 二次的障害の早期発見と予防的対応」)状況以外のケースをも見てきた。それは,神経発達症のある児童生徒の保護者自身が「自らの子育てが悪かったから(,こどもがこうなった)。」と思い込んでしまうなど種々の要因により自信を喪失し,うつ病や統合失調症などの心の病に罹る場合だ。このような保護者の状況を見た神経発達症のあるこどもが「自分のせいだ」などと思い込み,それが引き金となって,こどもまでも心の病に罹ってしまうことがある。(心の病に罹ったこどもを見て,保護者も心の病になる場合もある。)したがって,そうした状況に陥らないためには,人それぞれだから一概には述べられないが,まずは,何はともあれ,神経発達症についての的確な理解(適正なこどもの見立ての結果)が保護者や周囲を取り巻く者には必要であり,そのためにも,早期に医療・福祉機関等との連携を行わなければならない。ただ,その連携のタイミングを見計ること自体がまた難しいが,保護者が「(こどもの言動等に対して)何だかおかしい。」と感じたときには,即座に専門機関に掛かる必要がある。そうした意味において,厳しい言い方になるが,保護者の「在り方」は非常に重要だ。最近は脳科学の世界においても,幼年期段階の早期受診による神経発達症の改善を述べるようになった。」
さて,皆さまは,NHKの「u&i」という小学校全学年向けの放送番組があるのをご存知でしょうか?
「u&i」は発達障害などの困難があるこどもたちの特性を知ることで、多様性への理解を深めるこども番組です。メインパートは、こどもと妖精の対話劇。困難のある友達の“ココロの声”に耳を傾けながら、その悩みや特性を知り、どうしていくのがいいかを考える力を身につけていきます。
我が家ではこの放送番組を毎回録画し,息子と一緒に視聴することにしています。その目的は,次のとおりです。
- 息子が自分自身を客観的に見つめることができる。
- (息子が,)周囲のお友達が息子のことをどのように認識しているのかを理解できる。
- 息子にある神経発達症をどのように改善していくのかを息子と共に考えることができる。
初めて息子と一緒に番組を視聴した際,番組の冒頭で,早くも息子は「見たくない!!」とうつ伏せになり,拒否反応を示したのです。そこで,一旦再生を止めて,
「自分がいつもしてしまうことを,周りのお友達がどのように思っているのか分かるから一緒に見てみよう。」
「自分が苦手なことについて,何を頑張ってトレーニングしたら良いのかが分かるから一緒に見てみよう。」
と声を掛けました。すると,息子はむくっと体を起こし,テレビに向かって座ったのです。(この時,息子と視聴したのは「授業に集中したいのに…」というタイトルの放送回でした。)
番組を視聴しながら,息子は「これ僕もやっている」「お友達はこんな風に嫌な思いをしていたのか…。」と自分を番組の登場人物に重ね,客観的に見つめながら,学校での自分の姿を改めて認識したようでした。また,「こういうことが苦手なんよね」と私が補足した点も再認識し,そのために取り組んでいるトレーニングの意図についても再確認していました。
この番組のホームページでは,各放送回を無料で配信しており,加えて放送回ごとに教材,先生向けの学習指導案及びワークシート等をダウンロードできるようになっています。このような配慮がなされているということは,神経発達症のあるこどもやその保護者だけではなく,こどもたちを含めたすべての方に「神経発達症」について 知ってほしいと願う番組制作者の思いと時代の要請があるのではないかと思います。
「定型のこどもが非定型のこどもを知る/非定型のこどもが定型のこどもを知る」意義を改めて考えさせていただける番組だと思います。「(定型のこども・大人が)非定型のこども・大人のことなど全く関係ない。」,「定型のこどもに非定型のこどものことを教えて何になる!?。」ましてや「自分だけが得をすれば良いのだ。他人(ひと)なんて知ったことじゃない。」といった誤った認識は払拭されなければならないのです。塾長が,最近,特によく口にするようになった言葉ですが,確かに普遍主義・自我中心主義が横行するポストモダンの時代は終焉を迎えています。時代は「令和」という新時代に移り変わりました。私たちの誤った認識も,そろそろ移り変わらねばならないのです。
是非とも,皆さまにもご覧いただきたい番組だと思います。
参考:「u&i」NHK for School,NHK日本放送協会
- 「「自閉スペクトラム症」など「神経発達症」と診断を受けるこどもは,これからますます増える傾向にあり,「神経発達症」のお子様と触れ合う機会も多くなると思います。そうした中で,今,皆さんの身近に私たち親子がいます。そうした環境が皆さんにとって幸運であると思っていただけたら幸せです。」
- 「「自閉スペクトラム症」についてお知りになりたいとか,ご迷惑をお掛けしますが,息子への対応で困っているから,その方法を知りたいとか,どんなことでも構いません。いつでもお声を掛けてください。必要であれば,資料などもお渡しいたします。誠意をもってお応えします!!」
- 「息子は自分の苦手なところをクラスの皆さんに支えていただいているという自覚を持っています。そして,クラスの皆さんお一人お一人に感謝しながら,ここで過ごさせていただいています。新たな1年が,また皆さんと共に成長できる1年になればと思っています。」
そういって,私は話を終えました。
お話を聞いてくださった保護者様からは温かいお声を掛けていただいたり,「そうだったんですね。……。」と息子に対しての理解を示してくださったりした方もおられ,公言して良かったんだと感じています。しかし,依然として〈周知〉はされていません。私から一方的にお話をしたとしても,周りの皆さまが〈知りたい〉と思ってくださらない限り,それは皆さまの心に届きません。
公言したことをどのように受け止めていただいたのか,果たして息子の状態が正確に伝わったのかは分かりません。公言は決して息子のためだけではなく,クラスのため,学校のため,そして地域のためであると考えています。「学校―家庭」間だけではなく,保護者間,地域間においても,お互いに連携し合い,お互いに知り合うことで,全ての皆さまが住みやすい,そんな(こころの)居場所ができあがるのだと思います。
そうした願いを込めながら,走り続けた1か月が過ぎ去っていきました。
【塾長追記―本ブログに認めてある副塾長の言動について―】
県教委で公立学校の生徒指導を指導してきた者として付言します。
今回の副塾長の言動は,〈副塾長〉としてはほぼ満点です。
今回の息子さんのようなケースの場合,本来は,校長の校務分掌命令により新担任が定まった時点で,学校は即座に副塾長が提案した「保護者―学校」間の連携を持たなければなりません。そのためには,当然のこと,それまでに,教職員間で 計画的,継続的に当該(乳幼児・)児童(・生徒)の情報連携が行われていなければならず,担任が交替する際,その情報の申し送りが確認されているべきです。―息子さんの通う学校の情報を把握していませんから,当該校を誹謗中傷するものではありません。一般論として述べています。―
今回はその情報連携の提案を保護者が行ったわけです。何も問題はないばかりか,身内を褒めるようで恐縮ですが,素晴らしい行動だと思います。恐らく,世の中には,「そんな(今回の情報連携のように学校を動かす)ことを保護者が行って良いのですか?」とか,「そんなことをすると,私(当該の保護者)がクレーマー(モンスターペアレント)に思われてしまう!!」とか思われる方がおいでなのではないでしょうか?
しかし,そうした認識は誤りです。
学校が動かないのならば動かせば良い。
(ホンモノのクレーマー(モンスターペアレント)の取る行動ではない情報連携を行うのに,)「私がクレーマー(モンスターペアレント)と思われてしまう(から嫌だ)!!」とは,「自分だけが可愛くて,こどもはどうでも良いのか!!」という話です。
学校と日常的,かつ,計画的に,そして継続して情報連携を行うことが,お子様の成長のためになる―お子様の課題及びその指導方針・方法を共有する―のであるし,保護者及び教職員のためにもなるのです。仮に,(問題行動等)お子様の学校生活でお困りのことが生起したとするならば,その多くは情報連携不足に起因していると言って過言ではありません。何か問題が起きてから,保護者にせよ,学校にせよ,地域社会にせよ,動くのでは遅すぎるのです。その際,もっとも困っているのは当該(乳幼児・)児童(生徒)ですし,保護者や教職員でもあるはずです。「転ばぬ先の情報連携」は,ある意味,生徒指導のセオリーとして,地味な行為ではありますが,とても大切な行為なのです。
このように申し述べてくると,例えば,今回の「副塾長」の場合など,「「副塾長」だからできることであって,私にはできません!!」と仰る方が必ずおられます。―現役の折,何度も経験しました。―勿論,私は「副塾長」と全く同一の言動を取った方が良いとは申し上げておりません。性格であったり,置かれた環境であったりと,保護者も人様々ですから,一概には言えませんが,―だから,「今回の副塾長の言動は,〈副塾長〉としてはほぼ満点です。」と述べたのです。―「副塾長」の取った言動の根底にある思いや考え方は大いに参考になると言えるのです。
副塾長は,日頃,私の隣で仕事をしながら,よく口にしています。
「私はモンペ(モンスターペアレント)と思われようが,どう思われようが,そんなこと構わない。息子や周囲のお子さんが成長してくれたら,それで良い。みんなが仲良く学校生活を送ることができれば,保護者だって,先生方だって笑顔で過ごせるんです。だから,仮に周囲の人たちに嫌われても,私はそれで良い。だから,頑張るんです。」
他の保護者や教職員集団を視野に収めながら,こどもたちの成長,延いては幸せを願いつつ行動する姿勢には学ぶものが多いはずです。
ただ,私はこれまでに数多くの保護者との出会いを持たせていただきましたが,確かに「副塾長」のような保護者は数少なかったと言えます。だから,保護者お一人お一人のお考えや言動がそれぞれに異なっていることもよく理解しています。しかし,知っているからこそ,そうした経験を数多く積んでいるからこそ,自らのお子様,周囲のお子様,他の保護者や先生方の笑顔のために―このポイントを外すことはできません―「保護者―学校」(「保護者―保護者(地域社会))間での連携を行うに臨んで,必ずお一人お一人に合った連携の方法があることも熟知しているのです。
現に,「(その)お一人お一人に合った方法が分からない。」という保護者の言葉もよく窺ってきました。したがって,万一,そうした思いをお持ちになられるようなことがありましたならば,是非とも「鍛地頭-tanjito-」の我々にご一報をいただければと思います。学校社会の酸いも甘いも噛み分けた「鍛地頭-tanjito-」が種々の立場(乳幼児・児童・生徒,保護者,学校,地域社会等)それぞれの「win-win」を目指して尽力いたします。
今回のブログにはこのような我々の思いが底流にあります。(勿論,定型であろうが,非定型であろうが,連携に対する考え方に相違はありません。)したがって,例えば,「副塾長」の作成した「連携資料」を添付した次第です。勿論,完璧な資料という訳ではありません。ですが,学校に対してどのように(情報)連携を申し込めば良いのか,(その時期も含めて,)一つのサンプルにはなろうかと思います。
この「連携資料」を初め,「学校連携」についてご質問がおありでしたら,次のフォームを利用していただき,我々「鍛地頭-tanjito-」にご相談ください。
なお,本ブログにかかわる塾長のさらなる本音は,次のブログ記事に認(したた)めてあります。
【「鍛地頭-tanjito-」の教育論(特別支援教育(家庭療育))関連ブログ記事】
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