〈ホンモノの教員〉は〈ホンモノの教員〉にしか創れない。
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➡ 「他者」と〈新しい文化〉を〈共創造(co-creation)〉する能力を鍛える!!
※対象 保護者,こども,教育に関心のある方
➡ こどもも大人も明るく笑顔になれる!!
➡ 〈理論〉と〈実践〉とを交えた内容で分かりやすい!!
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ホストの夜な夜な大事件―〈言語(運用)能力〉の育成を主眼にした朝の一斉読書!!―
教育活動には種々の態様があります。また,一つひとつの教育活動には,それぞれの教育的意義及び目的/目標とされる効果等があります。しかし,遺憾ながら,それらの意義や教育効果の目標化などは,日々の教育実践の中で忘れられがちです。
そこで,具体的な教育場面を取り上げ,種々の教育活動の根底にある教育的意義や目標化されるべき教育効果などを再確認するため(下位目的),本カテゴリーに当塾の塾長による教育実践に根付いたショートブログを書き下ろすことにいたしました。その上位目的は,次のとおりです。
〈乳幼児・児童・生徒の未来に羽搏く成長〉に資する教育実践の創造
日々の真摯な教育実践の参考としていただければ幸甚です。また,教員採用候補者選考の「場面指導」にもお役立てください。
本ブログは「〈言語(運用)能力〉の育成を主眼にした朝の一斉読書!!」と題するブログの第1章に当たります。今後,第6章+αまでを綴る予定です。主に,「朝の一斉読書―〈読み〉―言語(運用)能力等の育成」について,その連関性に着眼しながら語ります。その間,教員採用候補者選考の受験主体向けの「読むこと」に関する情報提供も簡潔に行います。
章構成は次のとおりです。
なお,第2章以下全て仮題です。
- 第1章 ホストの夜な夜な大事件―The host’s nightly big incident ―(本ブログ)
- 第2章 朝読書ーReading effectー
- 第3章 The 読書ーCrisis!!ー
- 第4章 読書指導の意義と現状の課題に対する改善策―SUMMARYー
- 第5章 〈言語(運用)能力〉の育成ーUrgent problemー
- 第6章 家読―Home readingー
- 〔付記〕電子書籍の活用
- 参考文献・資料等
早速,第1章の幕開けです。
第1章 ホストの夜な夜な大事件―The host’s nightly big incident ―
平成5年9月21日,当時,28歳だった筆者は,(当時)文部省若手教員海外派遣団カナダチームの一員として,全国から集結した23名の新進気鋭の先生方と共に渡加。サバイバル(survival)を基調とした教員・語学研修とSchool board1)を初めとする各種教育機関等への表敬訪問(視察)及び配属校での勤務の旅に出立したのであった。
2週間に及ぶ過酷な語学研修の後,筆者が単身で赴任した街はバンクーバー(Vancouver)から車で45分の長閑なLangley(British Columbia州)であり,配属校は耳にするだけで蕁麻疹が出そうな2)「Walnut Grove Secondary School」(Langley School District(ラングレー教育学区))3)だった。
【こちらの当塾オリジナルジャンル「教育コメディー」も楽しめますよ!!】
ホームステイ先のホストファミリーには恵まれた。当時29歳で美男のAと27歳で故ダイアナ妃に瓜二つのB(teacher)は献身的に筆者のお世話をしてくれた。若く溌溂としたホストのカップル(夫婦)が精力的に連れ出してくれたある週末のハイキングを一生忘れることはない。目的地は標高2,000mに近い峻嶽だった。「週末のリラックスのため,ハイキングをする」とは聞いていたが,山の麓に着くまで,この山を登ることが「ハイキング」であるとは思ってもみなかった。日本において「ハイキング」とは自然に触れ,楽しみながら歩くことを言う。……Read more
「筆者」に起きた事件とは!? 将又,「故ダイアナ妃に瓜二つのB」に起きた事件とは!? 謎の展開を遂げる第1章の続きはこちら👇からどうぞお楽しみください。
【References】
1) カナダでは州単位でSchool Boardが存立しています。各州の教育を司る教育委員会のようなものです。
2) 詳しくは「塾長のカナダ武勇伝(?)―その2 語学研修Ⅰ-」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2018.2.24)をお読みください。
3) 現在の日本の公立中高一貫校に当たる学校で,当時約1,200人程度の中高生が在籍していました。
「敵/味方」の思考性を止揚(aufheben)せよ!!-一元論的「保護者-教員(学校)等」関係論-
教育活動には種々の態様があります。また,一つひとつの教育活動には,それぞれの教育的意義及び目的/目標とされる効果等があります。しかし,遺憾ながら,それらの意義や教育効果の目標化などは,日々の教育実践の中で忘れられがちです。
そこで,具体的な教育場面を取り上げ,種々の教育活動の根底にある教育的意義や目標化されるべき教育効果などを再確認するため(下位目的),本カテゴリーに当塾の塾長による教育実践に根付いたショートブログを書き下ろすことにいたしました。その上位目的は,次のとおりです。
〈乳幼児・児童・生徒の未来に羽搏く成長〉に資する教育実践の創造
日々の真摯な教育実践の参考としていただければ幸甚です。また,教員採用候補者選考の「場面指導」にもお役立てください。
【今回のポイント】
「保護者―学校等」間の協力関係を構築するためには,
○ 「敵/味方」の二項対立の思考性を超克・止揚(aufheben)しなければならない。
○ エゴイズム(egoism)から自己を解放せよ。
それは全てお子様/乳幼児・児童・生徒のためである。
- 1 「お前なんか教員を辞めろ!!」
- 2 お互いに二項対立の思考性を止揚(aufheben)せよ!!
- 3 自我中心主義を払拭せよ!! あなたたちに〈教育愛〉はないのか!!
- 4 クレーマーは学校の応援団
- 5 こどものためだ。自分のためではない。怯むな!!
- 6 教職員の落とし穴
1 「お前なんか教員を辞めろ!!」
〈対話〉前,生徒及び保護者に「教員(学校)=敵/味方」の二項対立の思考性(固定観念・先入観)があった。
「お前なんか教員を辞めろ!!」
29年程教員をやって,合計2組の親子に言われましたね。時と状況はそれぞれ異なりますが。学校の指導方針と指導方法を伝える場面でした。しかも,まだ〈対話〉の「た」の字も行えていない状況で。
しかし,家庭訪問や学校で,当該の親子と〈対話〉を繰り返すうち,1組は棟上げ式に,1組は当該生徒の結婚披露宴に賓客としてご招待を頂きました。
美談を語るつもりは毛頭ありません。鈍臭い筆者(私)だから,そうした結末を頂いたのだと思います。
どうも2組の親子には,当初,「教員(学校)は敵だ!!」と捉える固定観念があったように思います。そうした観念は,これら2組の親子だけではなく意外と多いのが現実でしょうね。――実は,「意外」ではないと思います。(笑)――表に出すか出さないかが異なるだけで。
その原因は,当該の親子がそれまでに「当該の親子=敵/味方」の二項対立の思考性を持つ教員(学校)に出会っていたことにあるのかもしれません。そうであるならば,親子・教員(学校)が共通した「敵/味方」観にどっぷりと浸かっていた。したがって,ぶつかり合うのが定め。まさに西洋文明の象徴,物心二元論の弊害を被っていたわけです。「生徒・保護者が悪い/教員が悪い」の二項対立による思考性を超越・超克→止揚(aufheben)し,高次の「保護者―教員(学校)」関係を構築する場面が不幸にもなかった/持てなかったのです。
2 お互いに二項対立の思考性を止揚(aufheben)せよ!!
指導方針・指導方法は異なっても,お互いが「お子様/当該乳幼児・児童・生徒をより良くしたい。」と子ども中心の思考性で両者の二項対立の思考性を止揚(aufheben)せよ。
「お互いに二項対立の思考性を止揚(aufheben)せよ!!」
「そんなことができたら苦労せんわい!!」と怒られそうです。保護者からも先生方からも。まあ,20世紀以降を生きてきた私たちの思考性がそう容易く無意識のうちに変容するとしたら,地球も逆回転するでしょうね。ですが,意識をして変容することは可能なのです。筆者は経験しましたから。何度か。
では,どうすれば,そのようなコペルニクス的転回1)を成し得るのか?
まず,申し上げれば,お互いを「敵」と意識するからトラブル(争い)が絶えないのです。したがって,お互いを「敵」として意識しないように意識すれば良いのです。抑々,「敵・仇(てき・かたき)」は「争いの相手,恨みのある相手, 害を与えるもの」などの意味を持ちます。2)「保護者―教員(学校等3))」の間にお子様/乳幼児・児童・生徒が介在していて,何を「争い」「恨み」,「害を与えるもの」と意識するのか?
保護者にとってはお子様を,一方,教員(学校等)にとっては乳幼児・児童・生徒を「今以上に良くしよう!」という共通した話ではないのでしょうか?
「今日という日は,担任に散々言ってやってわ!」
「あのモンスターペアレントを打ち負かしてやったよ!」
このような「武勇伝」(?)を捲し立てて,「保護者―教員(学校等)」間に介在する乳幼児・児童・生徒が今以上に良くなるのでしょうか?
余談ですが,「武勇伝」の「武」について,筆者は若かりし頃,教員の大先輩に当たるある方から,次のようなお話を伺ったことがあります。この先生は元日本陸軍の中尉で特攻隊の指揮官だった方です。
「小桝先生。「武」という字を書いてごらんなさい。そして,その一字を凝と見て。「戈」と「止」という二文字が見えるかい。「戈」は「刀」と思えば良い。「止」の元の字形は「敵を攻めに行く」という意味を表していたが,ここでは「とまる,とどまる」の意で,現在の字形を考えておくと良い。「止」には「おさえる,こらえる(我慢する)」の意味もある。つまり,「武」とは「刀を抜かないこと」を言うんだ。抜こうとする「刀」を止めるんだ。「刀」を抜いてしまっては「武」ではないんだ。これが,(私から)小桝先生に教えてあげられるたった一つのことだ。」
このお言葉を頂いて以来,私の生徒指導の在り方は変わったのです。
保護者も教員(学校等)も「刀」を抜いてしまってはいけないのです。抜いてしまった「刀」は必ずやお子様/乳幼児・児童・生徒を傷付けてしまいます。「この子を良くしよう!」(保護者からの〈愛〉),「この乳幼児・児童・生徒を良くしよう!」(教員(学校等)からの〈教育愛〉4))と矛を収めるのです。そうした態度はお互いを「敵」と憎み合う意識を超克していきます。その上で,お子様/乳幼児・児童・生徒を良くするために,お互いで只管〈対話〉を営むのです。「どうしたら良くなるのか? どこを目指して指導していくのか?」と。家庭の指導方針・指導方法と学校のそれらとを突き合わせるのです。すんなりといかないことの方が多いでしょう。それでも高次の指導の在り方を目指して〈対話〉を繰り返すのです。お互いが毅然とした態度で,冷静に,丁寧に,粘り強く(=「武」)。お子様/乳幼児・児童・生徒の悪いところばかりを見ないで。その思考性が既に「良/悪」の二項対立の図式なのですから5)。「良/悪」両面を持ち合わせるのが「人」というものです。この二項対立を止揚(aufheben)したお子様像/乳幼児・児童・生徒像を模索・具現化するためにも,まずは「良さ」をしっかりと見極める必要があるのです。
因みに,「武」には「一歩を踏み出す」の意味もあります。「保護者―教員(学校等)」間の人間関係(リレーション)6)の構築を目指して「一歩を踏み出す」ためには,「武」,つまり「刀」を決して抜いてはならないのです。
さらに余談です。「敵・仇」には「配偶者」の意味があります。これって…
3 自我中心主義を払拭せよ!! あなたたちに〈教育愛〉はないのか!!
(1) 「保護者―教員(学校等)」関係等小話
ア 「私たちの苦労は保護者対応なんです。お母さん。」
つい,先日のことです。ある保護者から,このようなお話を伺いました。生徒指導上の問題行動にかかわる被害的立場にあるお子様のことで,学校へ相談に行かれた時のことです。いきなり校長室に通された当該の保護者は,人払いをした校長から次のような言葉を投げ掛けられたのです。「私共も一生懸命に指導に取り組んでおります。でも,そう簡単に結果は出るものではありませんからね。私共も苦労をしているのです。特に,苦労するのは保護者対応なんです。お母さん。」
イ 「保護者が来なくて良いというから…行かないで良いんですよね。」
「鍛地頭-tanjito-」をやり始めた頃のことです。若い現職教員が相談に来ました。「管理職も先輩教員も家庭訪問に行った方が良いというから,不登校の生徒の家に行ったんですけど,その生徒のお母さんに『もう来ないでください。』って言われたんです。保護者が来なくて良いというから…行かないで良いんですよね。これ以上(当該教員が)行っても,余計に(保護者との)関係を壊すだけだから。ねえ,先生(筆者のこと),行かなくて良いんでしょう?」7)
ウ 「誠意がない家庭訪問ならば,もう二度とうちの敷居を跨ぐな!!」
「先生(筆者のこと),今頃の教員はどうなっちょるんな! 上(管理職のこと)が「行け~」と指示しちょるんか? 不登校のわしの娘を心配して家庭訪問に来ちょるんじゃないで。全て自分(当該教員のこと)のためよのう。何回も家に(当該教師が)来るが,いっこも(一つも)誠意がない。仕事じゃけん来ちゃりょうるっちゅう感じで,却って不信感が湧く。わっしゃ~のう~「誠意がない家庭訪問ならば,もう二度とうちの敷居を跨ぐな!!」ゆ~てゆ~ちゃったんよ。そうしたら,それっきり,家に来んようになったわい。〔註:因みに,この話に登場する教員は,「小話イ」の教員ではありません。〕
エ 「それは困る!! 為になるお話を聞かせてくださいよ!!」
若手の教員(A)とお話した時のことです。A:「教員の世界はいくら一生懸命にやったって報われる世界ではない。時間単価の仕事をしておけば良いんですよ。勤務時間を超えて,生徒と熱心に話し込んでいる先生方が信じられない。そういう働き方で良いのかと。」 私:「そうですか。わかりました。あっ,もうこんな時間だ。あなたとお話をする予定の時間はとっくに終わっていますよ。あなたのお考えを尊重すれば,私の勤務時間はとっくに終わっているのだから,私はこの辺で失礼します。」A:「ええっ!! それは困る!! もっといろいろ為になるお話を聞かせてくださいよ!!」
(2) 「あなたたちに〈教育愛〉はないのか!!」
自我中心主義(「自己/(>)他者(乳幼児・児童・生徒・保護者等)」)を超克せよ!!
〈教育愛〉があれば,いずれ「保護者―教員(学校等)」間の人間関係(リレーション)は構築できる。
前記「保護者―教員(学校等)」関係等小話(3-(1))を綴っていたら,無性に腹が立ってきたので,この節は至って簡潔に締め括ります。その前に筆者の体験談を小話にまとめます。(プライバシーには留意してあります。)
オ 「あんたらにゃあ,負けたよ。上がってくれ!!」
その男子生徒は学校に来たかったのです。しかし,家族が登校を反対していました。理由はプライベートであるので,お話できません。
筆者は当時副担任をしてくださっていた先輩の先生と,毎日,家庭訪問を繰り返しました。
とにかく登校して欲しかったのです。友達と一緒に学び・遊んで欲しかったのです。当該生徒の願いを叶えたかったのです。
「家に近づくな!」
当該生徒の祖父の声です。家族の中でも最も登校に反対でした。それでも,庭先の道路から家中に居るだろう生徒に声を掛けました。そうした日々の繰り返しでした。8)
いつしか,その声掛けは玄関前からになりました。
「道路からでかい声で声を掛けられたら,えらい近所迷惑じゃ。玄関の中には入れんど!」
いつしか,上り框の前で当該生徒と語り合っていました。
「まあ,入れ。じゃが,家の中には上がらさんど!」
いつしか,生徒宅の居間で生徒と祖父と談笑していました。
「あんたらにゃあ,負けたよ。上がってくれ!!」
苦笑い/照れ笑いをした強面の祖父は,そう優しく語り掛けてくれました。
「因みに,先生ら。わしゃ~,あんたらみたいな先生を見たことがなあ(ない)。なんで,そんなにわしの孫のために必死になるんな。わしや親以上に必死よのう。なんでなんな?」
「わしらにとってもかわいいけんね。」
「よ~わかった。よ~わかったで。これからは好きに出入りしてくれ。わしでえかったら,学校のこと(行事等)にも協力さしてくれえのう。」
「ありがとうございます。おじいちゃん。」
また,次の引用文を併せてお読みください。諸富祥彦(H25.9):『教師の資質 できる教師とダメ教師は何が違うのか?』,朝日新聞出版,[キンドル版],検索元 amazon.com からの引用です。大量の引用となることをご海容ください。なお,引用中の下線は筆者が施しました。
子どもたちの前に本気で立ちはだかって,子どもの人生に影響を与える覚悟ができていない人は,教師になるべきはない,と私は思います。
教師という仕事は,魂を注ぎ込む仕事です。
一言で言えば,「日々の生活,丸ごと教師」なのです。
「自分の生活すべてをかけて教師という仕事に投入している」――そんな優秀な教師はたくさんいます。彼らは,教師という仕事のために人生のエネルギーのすべてを注いでいるのです。
熱心な先生方はよく「給与明細をちゃんと見たことがない」と言います。給与のために仕事をしている,という自覚がないのです。あるいは,自分は給与の何倍かの仕事をしているという自負があります。給与明細を気にし始めたら,とても教師という仕事はやっていられない,そう思うぐらいのエネルギーと情熱を注いでいる教師が,本当に優秀な教師なのかもしれません。
教師として生きていくうえで最も重要なことは,「教師にだけ与えられた固有の使命感」を持つことです。
教師という仕事は,「子どもたちの心や人生に,大きな影響を与える」という,大変責任の大きい仕事です。それを引き受けようという決意と覚悟がない人は,教師という仕事につくべきではないでしょう。
教師は当然のことながら,教員採用試験を受けて教師になります。しかし,中には残念ながら,あまり使命感らしきものを持たず,子どもたちの人生に大きな影響を与えるのだという自覚も覚悟もなく,なんとなく教師になっている人もいます。
ダメな教師に共通しているものは,能力の有無以前に使命感が欠如していることです。
使命感(ミッション)と情熱(パッション)こそ,教師の精神性の柱になるべきものです。
20世紀の「知」のフレームがそうだからと言って,「使命感(ミッション)」も「情熱(パッション)」も微塵もなく,方法論ばかりに走る一部の教員がいます。「物(現象,結果)/(>)精神(心)」なのでしょうから。また,「自己/(>)他者(乳幼児・児童・生徒・保護者)」なのだから,堂々とエゴイズム(egoism)で教育活動(?)をしていながら,そうであるが故に「自己/(>)他者」に気づかない幸せな(?)な一部の教員もいます。そうした一部の教員に物を申します。
あなたたちに〈教育愛〉はないのか!!
ないからそうなんでしょう。
ただし,「〈教育愛〉がある=良い教員(X)/〈教育愛〉がない=ダメな教員(Y)」とだけの思考は物心二元論的な思考性です。この場合,「X」と「Y」それぞれの教員群は実際の学校現場に存在するわけで,ヘーゲル弁証法で述べるトリアーデの2項であるから,残りの1項のジンテーゼを目指す必要があることになります。このように考えてみると,やはり「X」と「Y」とを止揚(aufheben)する契機は,現在のところ,眼前の一人ひとりの乳幼児・児童・生徒の良さをまずは見極め,「さらに良くするために,我々教員に何ができるのか。」について,毅然とした態度で,丁寧に粘り強く〈対話〉し続けるしかないのだと思うのです。そうでなければ,弁証法の枠組みを解体するしかないという帰結に至るのではないのかと思うのです。弁証法のフレームで考えるからいけないというわけです。つまり,例えば,二項対立の一項を解体させるのです。しかし,それはどちらか一方の項を解体したとしても,現実的に建設的な話にはならないように思います。ただ被害者となった乳幼児・児童・生徒及び保護者が残るだけの話です。
しかし,本格的なAI時代は目前に迫っています。本格的なAI時代が到来すれば,先述の「トリアーデの2項」に自然淘汰9)が掛かる可能性が大きいと考えます。詳しいことは別稿に譲りますが,本格的なAI時代にはホントウに優秀な教員(〈ホンモノの教員〉)しか生き残れません。それは知的レベルや教授スキル・テクニックについて述べているのではありません。到底,人間の教員のそれらはAIに劣るでしょうから。AIロボットに人間と同等の「感情」を持たせるか否かといった喫緊の課題を含めたシンギュラリティ(singularity)の問題が,今後,どのように展開するか,現段階では判然としません。ただ,明言できることは,「AI時代に必要となる教員の資質・能力は,乳幼児・児童・生徒(人類)のため,AIを含めた他者と共存できる人間関係形成能力と〈新しい教育〉を構築できる〈創造力〉であるとともに,それらを可能にする〈教育愛〉である。」ということです。
4 クレーマーは学校の応援団
俗称クレーマーはどこか傷付いている。何に,どのように傷付いているのかを理解せよ。そして,乳幼児・児童・生徒を起点に据えて話し合え。俗称クレーマーはきっと学校の応援団になってくれる。
「先生(筆者のこと),僕はあの保護者,好きではないんです。学校の指導方針や指導方法について,事あるごとに反対してくる。「反対のための反対」が生きがいなんですよ。それでも,毅然とした態度で,丁寧に粘り強く話し合いを持つのですか?」
「そう。世の中の保護者で,クレーマーと言われている人たちの大半は,何かがあって,どこか傷付いている。学校との関係が多いようだけどね。不安なんだよ。何かを焦っている。しかも,自己の考え(願望・欲望)を上手に表現できない人が多い。しかし,自分のこどものことは人一倍可愛い。自分のこどもには良くなって欲しいと思う人が多いんだよ。先生(保護者を嫌っている会話の対象となっている教員)だって,あの生徒に良くなって欲しいと願っているだろう。そこは一緒なんだよ。折り合える〈場〉はそこだ。不安や焦燥感をしっかりと傾聴しなきゃ。そこに現状を突破する鍵は隠れている。不安や焦燥感の根っこをしっかりと探るんだ。そこに,生徒の良さが絡んでいるはずだ。その良さをさらに伸ばす方向を模索する。その際,学校の指導方針を忘れるなよ。ただ,必ず合致するはずだ。私にもたくさんの経験がある。生徒を基底に据えて,腹を割った話をするんだ。毅然とした態度で,丁寧に粘り強く。そうすれば,分かり合える。人と人じゃないか。大抵,そういう保護者は,その後,学校に協力をしてくれたよ。私は「クレーマー」と呼ぶのは嫌いだが,俗称クレーマーに学校の応援団になってもらうんだ。……ああ,保護者の中には確かに「反対のための反対」だけを行い,自己存在感・自己満足感,こどもに対して見せ付ける誤った保護者の威厳を得ようとする人もいる。でも,この保護者は大丈夫だよ。」
「じゃあ,(その保護者に)電話します。」
「電話じゃだめだ! こんな大切な話を! フェイストゥフェイス(face-to-face)10)。(当該生徒の)家に行っておいで。副担任の先生と。」
「はい。わかりました。」
5 こどものためだ。自分のためではない。怯むな!!
教員や学校を前にして伝えたいことを伝えられない。なぜか? その根底には自我中心主義(エゴイズム(egoism))があるから。自己を囲わず,怯まず,こどものため,二項対立の思考性を超克して相談しやすい教職員に相談すべし。
現代はポストモダンの終焉期です。それまでに存在した「小さな価値観」は消滅し,その代わりにカントが「根源的悪」としたエゴイズム( egoism・利己主義)が蔓延り,大衆は我執に塗れた「〈鄙陋〉の残滓」と化しています。
このように述べると,「何を生意気に!」と仰る方がきっとおいででしょう。ですが,以上のような言述行為を筆者は「厳しい言い回しですが…」などと諂い断るつもりはありません。なぜならば,現実にそうだからです。「二項対立の天秤」は殆どの場合,自己側に傾きます。自己の「得」になる方向に。これがポストモダン終焉期の実相なのです。
教員についてもそうです。こうした二項対立の思考性で教員を捉えれば,大枠は「良い教員/ダメな教員」となります。中間に位置する教員もいるのですが,「大枠」はそうです。ただし,何を基準に「/」を考えるかでこの図式の含有する意味性が変わります。あるいは図式ごと変わってしまいます。ただ,「教育」である以上,何を対象とする「教育」であるかを考えれば,自ずと「基準」の最たる要素は「乳幼児・児童・生徒」になります。遠回しな言い方は止めて,直截的に申し上げると,「/」には「乳幼児・児童・生徒に対する〈教育愛〉」を措定せざるを得ないのです。「ダメな教員」をよく見てください。〈教育愛〉に乏しいから,教育活動に係る言動が「ダメ」でしょう。えっ,「なぜ「良い教員」を引き合いに出さないか?」ですって。本筋上「ダメな教員」の方が分かりやすいからです。「ダメな教員」は自分が可愛いのです。乳幼児・児童・生徒よりも。それでいて,自らが真っ当な教育活動を行わない理屈だけは仕立てています。だから,騙されてはいけません。如何にも乳幼児・児童・生徒を思っているかのような〈騙り〉に。
ですから,〈ホンモノの教員〉か否かを見極める鍵はここにあるわけです。
「自己のことを後回しにしてでも,乳幼児・児童・生徒を優先的に考えて教育活動に全身全霊を捧げているか。(これって当たり前ですけど。)/結局は自己の損得だけを考えているか。」
一方,保護者にも自我中心主義の方が多いですね。教職員や学校に不満があるのに,その不満をぶつけられない。
「だって,恥ずかしいし,格好悪いし,怖いし…。」
「それって,在り来たりの言述行為を営めば,「自分が可愛い」のですよね。」
「そんなことを言っても,どうやって先生や学校に伝えたら良いか分からないし。」
「方法を考えておられるその心理の背後に自我中心主義があると申し上げているのです。」
「一心不乱に先生や学校に直訴して,却って人質に取られているこどもが被害に遭ったらどうするのですか? 「ダメな教員」が多いでしょう!」
「(自分が可愛いために)怯んではいけません。」
「すぐに「鍛地頭-tanjito-」に相談してください。」と言いたいところですが,まずは話しやすい教職員に相談されてみてはいかがですか? あっ,「自己の損得だけを考えている教員」はダメですよ。いくら話しやすくても。なぜかはもうおわかりでしょう。ここが肝心です。「この先生は熱き〈教育愛〉の持ち主だ。この先生ならばこども(保護者)を全力で守ってくれる」,事実そのような教員を選ぶのです。
相談の在り方としては,後に事が大きくなった時に証拠になりますから,まず 教職員や学校におっしゃりたいことをきちんと文章にして,事前にアポイントを取り,親権者が相談に行くのです。学校等というところは,親権者の代理人弁護士等は別として,原則,親権者と話し合わなければならないのですから。そして,足繁く通うのです。というか,お子様のことを想えば,そうなるでしょう。
その上に,二項対立の思考性を排除することです。「敵/味方」の思考性は話し合いをトラブルに変ずるだけです。お子様/乳幼児・児童・生徒が被害を被り,迷惑します。 お子様/乳幼児・児童・生徒を中心に据えて,「どうしたらお子様/乳幼児・児童・生徒が今以上に良くなるのか」といった視点で,毅然とした態度で,丁寧に粘り強く〈対話〉するのです。敢えて方法論を述べれば,それしかありません。
ただし,保護者の皆さん,「自分のこどもだけ良くなればそれで良い。」とする思考性も超克してくださいね。それって,単なるエゴイズム(egoism)です。「〈鄙陋〉の残滓」になってはいけません。
6 教職員の落とし穴
「保護者―教職員」間の信頼関係を逆手に取る保護者の出現。これをホントウの「教職員の受難」と呼ぶ。
昨年のことでしたか? 記憶が定かではないので,誤りがあったら申し訳ありません。
朝鮮日報の記事であったことに間違いありません。ある日,目に留まった記事に教壇を追われた大韓民国の女性教師の話がありました。女性教師の生徒に対する指導上の行為を体罰だとして難癖を付け,非道なやり方で金銭を要求し続けた保護者。事の結末は女性教師の自主的な退職だったと記憶しています。余りの衝撃的な話に事件の詳細な顛末を失念しましたが,大韓民国ではこういった保護者が増えているとか。
〈教育愛〉に満ちた教職員がこういった事態に巻き込まれたとしたら,それを唯一「教職員の受難(教職員受難の時代)」と呼ぶのだと思います。事の態様は様々でしょうから,個別案件でこうしたことを語っているのではありません。巷間には「「プロの教師」ならば,こうした事態に巻き込まれない。」と仮想的有能感11)を丸出しで仰る方がいらっしゃることでしょう。しかし,それは違います。〈教育愛〉が如何なるものかをご存知でないから言えることです。他人事です。
「保護者―教職員」間の信頼関係を逆手に取る保護者が,今後,日本に現れ,増殖することのないよう切に祈る次第です。
しかし,それでも,〈教育愛〉を捨てきれない教職員を〈ホンモノのプロの教職員(〈ホンモノの教職員〉)〉と呼ぶのだと思います。
© 2019 「鍛地頭-tanjito-」
1. | ↑ | 「1 カント哲学の立場を示す語。従来、認識は対象に依拠すると考えられていたのに対し、対象の認識は主観の先天的形式によって構成されると論じたカントがこの主客関係の転換をコペルニクスによる天文学説上の転換にたとえて呼んだもの。2 発想法を根本的に変えることによって、物事の新しい局面が切り開かれることをいう。」(コトバンク:コペルニクス的転回(読み)コペルニクスてきてんかい(英語表記)Kopernikanische Wendung;コペルニクスてき‐てんかい〔‐テンクワイ〕【コペルニクス的転回】《〈ドイツ〉kopernikanische Wendung》,デジタル大辞泉の解説,出典 小学館) |
2. | ↑ | 参考:コトバンク:敵/仇(読み)カタキ;かたき【敵/×仇】 てき【敵】,デジタル大辞泉の解説,出典 小学館) |
3. | ↑ | 保育所(園)及び幼稚園を含め「等」と表現しています。 |
4. | ↑ | 「プラトンによれば,教師が生徒に対していだくべき愛情をさし,教師はこの愛に導かれて生徒をより高い真,善,美の世界に進めるべく努力する。このたゆまぬ努力こそが教育にほかならないとされる。つまり,人間の教育的行為の本質であり,原動力であって,教員養成の基本はこの教育愛の自覚と深化にあるとされるゆえんである。」(コトバンク:教育愛(読み)きょういくあい(英語表記)educational love;教育愛 きょういくあい educational love,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説,出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典) |
5. | ↑ | 二項対立の思考性は,どちらか一方の項が必ずどちらか一方の項の優位にあると捉える。 |
6. | ↑ | 心と心とのつながりのこと。 |
7. | ↑ | 当該教員と筆者との〈対話〉の末,家庭訪問の重要性を理解した当該教員は家庭訪問を続け,見事,当該生徒は登校できるようになったのです。なお,本小話の掲載に関しては当該教員の了解があります。 |
8. | ↑ | 生徒及び生徒宅のプライバシー及び法律は遵守しました。当たり前ですが。 |
9. | ↑ | 「2 時の経過とともに、優良なものが生き残り、劣悪なものがひとりでに滅びていくこと。「俗悪な雑誌は自然淘汰される」」(コトバンク:自然淘汰(読み)しぜんとうた;しぜん‐とうた〔‐タウタ〕【自然×淘汰】,デジタル大辞泉の解説,出典 小学館) |
10. | ↑ | 「面と向かって行うこと。直接に行うこと。「顧客とのフェースツーフェースの付き合いが売上増につながる」」(コトバンク:フェースツーフェース(英語表記)face-to-face,フェース‐ツー‐フェース(face-to-face),デジタル大辞泉の解説,出典 小学館) |
11. | ↑ | 「他者軽視をする行動や認知に伴って,瞬時に本人が感じる「自分は他人に比べてエライ,有能だ」という習慣的な感覚」(『他人を見下す若者たち』(速水敏彦,講談社現代新書 Kindle 版,2016.10,http://a.co/3X1YX0Z) |
学習規律の確立には学習者の内発的動機づけが肝心!!
生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典です。
本ブログをお読みいただくと,次の点について知識を得,理解を深めていただくことができます。特に,学級崩壊でお悩みの保護者の皆様には,学習規律の指導を媒介とすることによって,望ましい教員の指導の有様をお考えいただくことができます。
僭越ながら,本ブログ中に筆者の教育実践を2つ,3つ披歴しております。良い意味においても,悪い意味においても参考になれば幸甚です。
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〔註〕
1) 当塾の造語。ブログと論文とを織り交ぜた体裁の文章を言う。当塾のブログは10,000~15,000字を超えるものが多く,一般のブログとは区別するために当塾が命名した。
提出物の提出状況から氷山の水面下部を見よ。
教育活動には種々の態様があります。また,一つひとつの教育活動には,それぞれの教育的意義及び目的/目標とされる効果等があります。しかし,遺憾ながら,それらの意義や教育効果の目標化などは,日々の教育実践の中で忘れられがちです。
そこで,具体的な教育場面を取り上げ,種々の教育活動の根底にある教育的意義や目標化されるべき教育効果などを再確認するため(下位目的),本カテゴリーに当塾の塾長による教育実践に根付いたショートブログを書き下ろすことにいたしました。その上位目的は,次のとおりです。
〈乳幼児・児童・生徒の未来に羽搏く成長〉に資する教育実践の創造
日々の真摯な教育実践の参考としていただければ幸甚です。また,教員採用候補者選考の「場面指導」にもお役立てください。
【今回のまとめ】
○ 提出物の提出状況から氷山の水面下部を見よ。
○ 「担任等(個)の指導―学校・学年団(全体・組織)の指導」を常に意識せよ。
1 忘れ物対策だけに走るな
乳幼児・児童・生徒の宿題を含めた提出物に付きものが忘れ物。ある意味,行為としての「提出」は「乳幼児・児童・生徒―学校(担任等)」間の契約(約束)履行だから,それを守らせることは社会性の育成の面において重要なことである。また,内容によって,「提出物」は「乳幼児・児童・生徒―学校(担任等)」間のコミュニケーションを促進する媒体ともなる。だから,学校現場において「忘れ物対策」が講じられる。
「対策」を挙例すれば,「学校から保護者への文書」,「連絡帳(の指導)」,「机,ロッカー,ランドセル(カバン)の中の(乳幼児・児童・生徒自身による)点検(の指導)」及び「提出期限1日前提出の励行(指導)」などがある。
しかし,学校というところは怖いところで,「対策(指導)」は直ぐ様形骸化する傾向にある。
「どの学年(担任)も行っているから,私も連絡帳を活用する。」
「下校時,隣のクラスの担任も机の中を点検させているから,私もさせる。」
仕舞にはそうすることが空気のような存在になり,何も考えず指導する教員も出てくる。「対策」は魂の抜けた「タイサク」となる。
このような状態となる原因には,「対策」を「対策」としか考えない思考性がある。つまり,「対策」の持つ指導上の意義,目的及び教育効果の評価などが指導者から欠落しているのである。
2 提出物の提出状況から氷山の水面下部を見よ
「忘れ物が多い(乳幼児・児童・生徒だ)から,「連絡帳」で家庭と連携する。」
「忘れ物が多い(乳幼児・児童・生徒だ)から, 机,ロッカー及びランドセル(カバン)の中を点検させる。」
「忘れ物が多い(乳幼児・児童・生徒だ)から, 提出期限1日前に提出させる。」
こうした指導(?)の思考性は「対策」のための「対策」にある。「連絡帳」や「点検」等そのものが「いけない」のではない。思考性に問題がある。
「なぜ忘れ物が多いのか?」
まずは,このように考えることが大切である。ひょっとすると,指導者(つまり,自分自身)の指導そのものに問題があるのかもしれない。乳幼児・児童・生徒に忘れ物という現象が表象化される必然的な要因があるのかもしれない。
例えば,宿題の提出が遅れたり,なかったりする(乳幼児・)児童・生徒の場合,基本的な家庭学習の習慣がないのかもしれない。それも家庭環境に要因があるのかもしれない(だから,家庭訪問は重要だ)。その家庭環境の要因も一律ではない。抑々,学力が定着しておらず,宿題を行いたくても,わからないからできず,提出できないのかもしれない。
さらに,筆者自らの経験から述べれば,神経発達症(発達障害)を有する生徒の中に忘れ物が多かった生徒も複数いた。この場合(も),当該生徒,保護者及び関係諸機関等の連携・協力を得ながら,当該生徒一人ひとりの特性を担任として,学年団として,教職員集団(学校全体)として的確に捉え,丁寧に粘り強く指導する必要があった。当然のこと,一人ひとりの生徒に行った指導方法は異なった。―誤解があってはならないので。個に応じた指導は神経発達症を有する生徒だけに行ったのではない。それも忘れ物の指導だけではない。特別支援教育は全ての乳幼児・児童・生徒のための教育である。―
要するに,「忘れ物が多い」という現象は,氷山に例えるならば,―「氷山」はよく例えに用いられるので恐縮だが,わかりやすいので,―水面上の氷の部分(氷山の一角)に過ぎないのである。水面下の見えない氷は水面上の氷より容積が遥かに大きく,ここに一人ひとりの乳幼児・児童・生徒が有する複雑な問題が内在しているのである。1)したがって,これらの問題を解決する/させることが肝要であり,水面上の氷山(「忘れ物が多い」という現象)だけを追い掛け,いくら「対策」を講じても,抜本的な解決には至らないのである。また「忘れ物」は繰り返されるのだ。
提出物の提出状況から表層の「対策」を講じるだけでは,却って乳幼児・児童・生徒を傷付けることだってある。当該の乳幼児・児童・生徒本人に責任がない場合だってあるのだ。
氷山の水面下部を見よ。〈ホンモノの指導〉はそこから始まる。それは飽くまでも「対策」ではない。
3 「担任等(個)―学校(組織・全体)」の恒常的な意識化
指導を行うに際して,「「担任等(個)―学校(組織・全体)」(学校(学年)の指導方針・指導方法等を理解した担任等の指導)の恒常的な意識化」が大切である。それは提出物の指導だけではなく,どの指導についても言及できることである。
学校での指導は担任等,個の裁量で行えるものもあるが,それは学校(組織・全体)の指導に含有される指導(学校の指導⊃担任等の指導)として意識されるべきものである。
例えば,「我がクラスは忘れ物が多いから,「忘れ物グラフ」2)なるものを教室に掲示しよう。」とある担任が周囲の教員に相談することなく単独で指導(?)を始めたとする。それは,まずは「そんなグラフを掲示するなんて,何を考えているのだ!!」との大喝ものだ。先述したとおり,そうした指導(?)は氷山の一角型対策であって,水面下の氷山を見ていないのである。乳幼児・児童・生徒をいたく傷付ける悪行の可能性が非常に高い。
このような飛んでもない例はさて置いて,担任等(個)による指導の工夫は大切なのだが,常に学校全体,あるいは,学校の指導方針・指導方法等に基づいた学年(組織)の指導方針・指導方法等を理解し意識しておかないと,例えば,「あの先生は提出物の指導に厳しいのに,うちの先生は甘い!」などのお小言を頂戴するようになってしまう。指導間格差だ。筆者から言わせていただくと,「個ー全体」のバランスを欠いた/学校の指導方針・指導方法等を理解していなかった(無視した)指導を行った担任等は,別段,お小言を頂いても致し方ない訳だが,―それも経験3)です。―乳幼児・児童・生徒に担任等だけではなく,学年団,延いては学校に対して不信感を抱かせてしまう虞があるので,それが問題なでのある。乳幼児・児童・生徒と学校(教職員集団,個々の教職員)との〈つながり〉が切れてしまうと,〈健全な教育〉は成立しないのだ。
4 まとめ
今回の「提出物(/忘れ物)」の指導に関する考え方のまとめは,冒頭(緑色の囲みの中)に記述したとおりである。確認の意味を込めて,次に再掲する。
○ 提出物の提出状況から氷山の水面下部を見よ。
○ 「担任等(個)の指導―学校・学年団(全体・組織)の指導」を常に意識せよ。
一つひとつの教育活動には必ず意義があり,目的・目標があり,期待される教育的効果がある。活動の前に,指導者がそれらを振り返っておかなければならない。その上で,事前(活動)・事中(=主たる活動)の指導において「学習者(乳幼児・児童・生徒)―指導者」間で目的・目標をしっかりと共有し,事後(活動)に目的・目標に対しての評価を行う必要があるのである。
その際,表象(=水面上の氷河)だけを見ないことだ。確と水面下の氷山を見つめる(=(乳幼児)児童生徒理解する)ことが重要なのだ。そのためにも,「全体(全教職員等)」の視点が必要となってくる。「個」の視点だけでは,ものの見方や考え方にバイアスが掛かっているのだ。だからこそ,教職員には特に〈協働性・組織性〉が常に希求されるのである。
乳幼児・児童・生徒の明るい未来が掛かっている。
付記~連絡帳の指導~
特に,小学校の低学年など「提出物」に関する指導の一環として「連絡帳」を活用する学校があります。「家庭―学校(1対1)」のパーソナルな連携の意味合いもあります。そうした利点を持つことから「連絡帳」の活用頻度は高いのでしょう。
指導全般について言えることですが,例えば「連絡帳」の指導をいつまでどのように行うのか,学年団・学校としての計画を持っておくことが重要です。指導内容や指導方法だけではなく, 個々の指導における期限を考えることは大切なことなのです。 定まった期間の中で,指導し切ることは教員の指導への集中力を高め,その効果を期待できますし,乳幼児・児童・生徒にとっても時間的な目標を持てることから,指導期間後の成果から生起する達成感を味わいやすくなります。とにかく特定の指導のやりっ放しは止めましょう。勿論,学習評価を含めた指導全般の評価も忘れずに。
その点を鑑みながら,「連絡帳」の指導に少し特化して考えてみます。
「連絡帳」は主に「保護者ー当該乳幼児・児童・生徒―担任等(学校)」との三者関係で成立しており,保護者が学校からの伝達情報の受け手となって,当該乳幼児・児童・生徒に対し,家庭でその情報に関する指導を行うことが多々あるようです。つまり,保護者の指導場面が多いということは,―悪いことではありませんが,殊に提出物の指導の場合,保護者の過剰な指導が継続すると,―当該乳幼児・児童・生徒の保護者への依存度が高まることがあるのです。例えば,「提出物チェック」を毎回保護者なしでは行えないなど。これでは当該乳幼児・児童・生徒の自主性は育ちません。そこで,必要となるのが,指導内容,指導方法は然ることながら,指導期間の見立てです。例えば,提出物の提出が定着しつつあるようであれば,毎日の提出を止め,週に3回にするとか,家庭・学校がお互いに必要のある場合のみにするとか。
また,徐々に数値目標を減少させる(スケーリング)方法も考えられます。目の前の小さなゴール(目標/例:毎日提出→週に3回→週に1回→必要がある場合のみ)を順次少しずつクリアして,最終的には大きなゴール(目標/「連絡帳」を活用しなくても,忘れ物がなくなる。)を達成する。こうした解決志向(Solution Focused Approach)の考え方は種々の指導に有効です。
このような指導の見通しを持つためには,事前に過去の各学年等の提出状況を分析しておく必要があります。そのデータに当該年度の乳幼児・児童・生徒の提出状況を加味するのです。
特に,解決志向型の計画的・継続的指導は「連絡帳」の指導においても,一つの選択肢として必要だと考えます。
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教員採用試験で「場面指導」を「バメンシドウ」と思うな!!
1 教員採用試験における「場面指導」の位置付け
冒頭から誠に恐縮ではございますが,上記見出しについてのコンテンツ(情報)は種々の教員採用試験対策の参考書やブログ及びサイト記事等を参考にされたら良いと思います(笑)。それらには,概観して,次の事柄が記述されているようです。
先述したように,本ブログで上述の事柄について触れない理由は,次のとおりです。
【参考】
公立の小・中学校の通常の学級において、学習面又は行動面において著しい困難を示す児童生徒が6.5%程度の割合で在籍していることが文部科学省の調査において明らかになったところである。(同調査では、学習面(「聞く」「話す」「読む」「書く」「計算する」「推論する」の少なくとも一つの領域)で著しい困難を示す児童生徒が4.5%程度の割合で在籍していることも明らかになった。)また、発達障害の可能性のある児童生徒の多くは、通常の学級に在籍していることから、通常の学級における教科指導において、発達障害の可能性のある児童生徒が学習上つまずくことなく、学習を理解できるよう、つまずくポイントを意識した授業づくりなど学習面における支援が求められている。
発達障害の可能性のある児童生徒に対する教科指導法研究事業:文部科学省(初等中等教育局特別支援教育課),特別支援教育について 1.趣旨,登録;平成30年9月
要するに,「場面指導」を「バメンシドウ」としてしか考えていないから,このようなことが生起するのだと思います。
2 「場面指導」が「バメンシドウ」でない理由
そこで,「場面指導」が「バメンシドウ」でない理由を申し上げるため,以下に「学校現場における一つ一つの指導場面」に必要とされる考え方や能力等を簡単に述べることにいたします。そして,それを以て,教員採用試験の「場面指導」に関する概論的な対策とさせていただくことにします。
因みに,なぜ「簡単に述べる」のかという点について付言しておきます。それは, 「学校現場における一つ一つの指導場面」に必要とされる考え方や能力(また,技術)等は,「自己」や「自然」,「神仏」等を含む「他者」との繰り返される〈対話〉により,〈自己の内なる《自己(他者)》〉から炙り出されてくるものであって,その《オリジナリティー》を身を以て習得しないと,身にならないものだからです。
〈対話〉は「自己」を「了解・到達不能のありのままの《自己(他者)》」に近接させ,〈自己の内なるボイス〉5)と出逢う《旅》に誘います。6)したがって,〈対話〉は個別(=例えば,「受講者様個々―当塾スタッフ」間)に営まれます。ですから,決して普遍化・権威化して「学校現場における一つ一つの指導場面」に必要とされる考え方や能力(また,技術)等を語ることはできないのです。ー繰り返しますが,「学校現場における一つ一つの指導場面」に共通する本筋(≒セオリー)はあります。―
☝ 〈対話〉について
☝ 〈自己の内なるボイス〉について
「学校現場における一つ一つの指導場面(=「場面指導」)」に必要とされる指導の態様は,本来,個人的な特徴(個人差)があるものです。本筋(≒セオリー)さえ踏まえていれば,山の登り方はいくらあっても良いのです。教職員一人一人が多様な山の登り方をしながら,目指すは頂上の一点。その頂上には,抽象的な言い回しですが,〈「児童生徒を良くしたい。」と切に願う熱き思いと一人一人の児童生徒の成長〉があるのです。また,そうした教職員の多様な山の登り方を以て,〈組織性・協働性(組織的な指導)〉と言うのです。
ですから,本来,一律な対策(練習)で「場面指導」を乗り切れるものではないのです。「場面指導」は 「学校現場における一つ一つの指導場面 」をテクストとして切り取った一つのピースなのですから。つまり,「場面指導」で採り上げられる(一つの)素材(出題)に対する強み/弱みは個によって異なり,素材(出題)によって個の強み/弱みも異なってくるものです。それでいながら,どのケースであっても本筋(≒セオリー)を外してはならない。だから,敢えて述べれば,そこに教員採用試験における「場面指導」の〈意義〉があると考えられるのです。
もう少し分かりやすい例を挙げてみましょう。
児童生徒の生徒指導上の問題行動に対して,強面のA先生は大きな声で,(当該児童生徒を決して傷付けることのない)激烈な言葉を以て,B先生は物腰柔らかにおっとりした言葉遣いで,C先生はネチネチと論理的に指導します。しかし,このように指導の態様は異なっても,三先生はそれぞれ「毅然とした態度で粘り強く丁寧な指導を行う」本筋(≒セオリーの一つ)は外していないのです。そこには「当該児童生徒を良くしたい。」との熱き思いがあります。
前述したことは,こういうことです。この場合,例えば,B先生に常にA先生のように児童生徒を指導してくださいとお願いして,事が成就すると思われますか?
教員採用試験の「場面指導」対策として,仮に画一化した,一問一答(正解有り)型の「練習」ばかりを行っていたとしたら,あなたはA先生のように児童生徒を指導するよう求められたB先生になってしまっているのではないですか? しかも,その本筋(≒セオリー)を知らないとしたら…。教員採用試験の受験主体である皆様の中に,「場面指導」に不安や苦手意識等を持っている方がいらっしゃるとしたならば,恐らく,原因の一つはここにあるのです。
ただし,次のような反論が聞こえて来ます。
「「場面指導」では本筋(≒セオリー)が分かっていれば,それで良いのではないのか!?」
そうであるならば,文字化できる解があるわけですから,筆記試験として虫食い問題にするか,それをそのまま記述させると良いのではないですか? それをしないのはなぜなのでしょうか? しかも,これまた管見による限り,その本筋(≒セオリー)について説明した文章に遭遇したことはございませんが…。抑々,本筋(≒セオリー)が頭に入っているからと言って,千差万別で緊急対応を数多く含む教育事象に,誰もがそのように簡単に対応できるものでないことは,筆者の29年間にも及ぶ長い教職人生が証明するところですよ。それでいて,/だからこそ,「場面指導」は教員採用試験の試験項目なのです。
つまり,「場面指導」は 「学校現場における一つ一つの指導場面 」 のテクストとして切り取られた一つのピースであり,飽くまでも 「学校現場における一つ一つの指導場面 」 での〈指導〉のフレーム中にあって,「バメンシドウ」ではないのです。万一,「場面指導」を「バメンシドウ」と捉え,「教員採用試験」の有する言説の権威性下で,その呪縛から逃れられず,自己を解放できていなかったとしたならば,自ずから教員としての〈資質〉を問わなければなりません。厳しい言い方ですが。ただし,受験主体が将来出会うであろう,また現在眼前にいる児童生徒のことを考えれば,厳しい言い方になるのも当然のことです。
3 まとめ
定式化した戦略的な思考で突っ走るな!!
「まずは方法ありき」と言った考え方を捨てろ!!
「学校現場における一つ一つの指導場面」において,固定概念の呪縛で成り立つストラテジーや「まずは方法ありき」といった思考だけに突っ走って陥穽に嵌った教員はわんさかいるのです。特に若い教員がそうです。そうしたストラテジーや「まずは方法ありき」といった思考が成立するためには(特に若い教員の中で欠ける者が多い)〈人間関係形成能力〉の台座が必要です。 教育活動のあらゆる領域で〈生きて働く知識〉も必要です。〈コンプライアンス〉も必要です。〈経験〉も必要です。勿論,教科指導力,生徒指導力等々,〈教員〉として身に付けておかなければならない一通りの〈指導力〉も必要です。〈組織性・協働性〉も必要です。〈ファシリテーションを兼ね備えた創造性〉も必要です。〈思いやり(恕)〉も必要です。必要なものは枚挙に遑がありません。 「学校現場における一つ一つの指導場面」では,一人の教員の〈総合力(=総合的な人間力)〉が試されていると言って過言ではないのです。
その上で,〈 総合力(=総合的な人間力) 〉の中で最も必要であり,最も大切なものは何かと言えば,それは,
「まずは児童生徒ありき」
児童生徒に向けた熱き〈教育愛〉なのです。
教育愛 きょういくあい educational love
コトバンク:教育愛(読み)きょういくあい(英語表記)educational love ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説,出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,下線は筆者による。以下同様。
プラトンによれば,教師が生徒に対していだくべき愛情をさし,教師はこの愛に導かれて生徒をより高い真,善,美の世界に進めるべく努力する。このたゆまぬ努力こそが教育にほかならないとされる。つまり,人間の教育的行為の本質であり,原動力であって,教員養成の基本はこの教育愛の自覚と深化にあるとされるゆえんである。
教育愛 きょういくあい Erzieherische Liebe ドイツ語
コトバンク:教育愛(読み)きょういくあい(英語表記)educational love 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説,出典 小学館
被教育者の成長可能性に向けられた教育者の人格的徳性の一つである。日常の教育活動において教育者は、被教育者の背信行為に幾度となく直面し、そのつど挫折(ざせつ)感にとらわれる。しかし教育活動はその本質において、そうした教育者の教育的・人格的挫折を契機として成立する。したがって教育者は、被教育者の背信行為をもって、被教育者に対する信頼を失ってはならない。むしろ自己の挫折の集積こそ教育活動をより実りあるものとする契機と受け止める必要がある。被教育者の成長可能性に自己を賭(か)けるという冒険的行為の繰り返しのなかに、教育愛とよばれる教育者の徳性が形成される。教育愛は、自己と他者に対する不動の信頼の念と挫折の可能性を予想して成立するものである。[田代尚弘]
『新堀通也著『教育愛の問題』(1971・福村出版)』
これで,「場面指導」が ストラテジーや「まずは方法ありき」といった思考だけの「バメンシドウ」では乗り切れない理由がお解りになったことと拝察します。さらに,もう一つの左證を挙例しておきます。
表 平成32年度 広島県・広島市公立学校教員採用候補者選考試験の試験項目と主な評価項目例
試験項目 | 主な評価項目 |
グループワーク | ・コミュニケーション能力がある ・協調性がある ・柔軟性がある |
模擬授業 | ・児童生徒の考えを引き出す発問ができるなど十分な指導力を持っている ・児童生徒を引き付ける表情,動作ができるなど表現力が豊かである ・児童生徒に共感的,受容的な対応ができる |
個人面接 | ・児童生徒に対する愛情,教育に対する熱意,意欲等を持っている ・自ら進んで事にあたり,より効果的に行おうとする意思がある ・組織の中で自己の役割を認識し,良好な人間関係を築くことができる |
上表は「平成32年度 広島県・広島市公立学校教員採用候補者選考試験実施要項」(広島県教育委員会・広島市教育委員会)の「5 選考試験の内容等 (1)選考試験の内容 一般選考・障害のある者を対象とした特別選考・グローバル人材を対象とした特別選考【外国人留学生等】」に基づき,筆者が作表したものです。一県のみのデータ(例)ではありますが,寡少のデータながら各「試験項目」に様々な「主な評価項目」が設定されていることが分かります。
上表をご覧になって,ストラテジーや「まずは方法ありき」といった思考だけで「場面指導」をクリアできると思われますか? 万が一,「上表には「場面指導」という「試験項目」がないではないか!?」とおっしゃる方がいらっしゃいましたら,種々の教員採用試験対策の参考書やブログ及びサイト記事等をご覧になってください。「場面指導」はいろいろな「試験項目」の一部に組み込まれていると書いてありますから。
ある一定の〈総合力(=総合的な人間力)〉,就中熱き〈教育愛〉に闕如している教職員は往々にしてトラブルの元になります。児童生徒も,保護者も,当の教職員も,時には地域社会も,そして学校も〈辛いこと〉になるのです。教育行政と学校で管理職を経験した者(筆者)の痛切な思いです。このようなことからも,教員採用試験に「場面指導」が課される理由が髣髴としてきませんか?
これ以降,筆者の全くの主観で〈語ります〉。
得てして, ストラテジーや「まずは方法ありき」といった思考性に富む教職員は,熱き〈教育愛〉を持って教育活動に勤しむ教職員を冷めた眼差しで見つめ,蔑む傾向にあります。この辺りの諸事情にここでは深入りしませんが,児童生徒が立派な大人になって,嘗ての恩師とプライベートで杯を交わす際,その場に同席しているのは往々にして熱き〈教育愛〉を持って教育活動に勤しんだ教職員であるようです。
まあ,当たり前のことですけどね。
4 告知
「では,具体的にどのようにすれば,(教員としての)〈総合力(=総合的な人間力)〉を身に付けることができるのですか?」…a
本ブログ記事をお読みくださった数多くの受験主体等であるあなたはそのように思われるのではないのかと拝察申し上げます。
「まずは,何はともあれ,当塾のプログラムを受講され,許される期間,スタッフとの〈対話〉に勤しんでください。」
これが当塾からの飾り気のない回答です。
無論のこと,「a」のご質問に対して,当「BLOG「鍛地頭-tanjito-」」の中で,今後,具体的な回答を申し上げるつもりではございます。例えば,肝心の「本筋(≒セオリー)」について詳述しておりませんからね。
ですが,来年,教員採用試験の受験をお考えでしたら,一刻も早く,当塾との〈対話〉行為を営まれる方が 〈総合力(=総合的な人間力)〉を身に付ける上で効率的で効果的であると考えます。その際,次の受講者様及び塾生様の当塾の指導に対するご感想を参考にされてみてください。
【受講者様及び塾生様のご感想】
自分自身をメタ認知できる点です。
コンサルティングのように,
自分で気付かない良さをガイダンス・カウンセリングの両面から示唆してくださるからです。
その上で,次の3つがメタ認知できる鍛地頭の指導法です。
ダイアローグ(対話)形式で行う学習法,調べ学習を課す学習法が
大脳に刻まれるからだと考えています。
大脳に刻まれるのは,当意即妙で面接で答える時に非常に重要な点です。
また,問答法のように回答に不明な点があれば,ツッコミが入ります。
圧迫面接対策になり,
自分の回答の気付かない穴をどうカバーすれば
塾長に納得していただけるのか学習期間中に内省できます。
(中略)
人間性の涵養・内なる言葉・法令等文書の積集合を成す講座は
御社の教育理念の在り方をそのままを表現し,
受験生の自分の姿を気付かせていただけるのだと考えています。
F様/男性
(受講者様)
「「鍛地頭-tanjito-」に入塾するまで,
あちらこちらで学んできた面接練習の想定問答において,
自分が自信を持っていた回答がありました。
しかし,「鍛地頭-tanjito-」でその回答について是非を伺ったとき,
一発でコンプライアンス上の課題についてご指摘があり,
その内容について丁寧に教育法規に関するご指導を頂きました。
もし,あのまま試験本番を迎えていたらと思うと,ぞっとします。
得心するご指摘とご指導に感謝いたしております。」
H様/男性
(塾生様)
学び方がわからない,やる気が続かない,何をして良いか分からない,
そして,忙しいあなたへ
「鍛地頭-tanjito-」で学んで良かったことを主に3点紹介します。
1点目は,「学び方を知り,それを活用できる」ことです。(中略)
2点目に,「諸問題についてロールプレイングで体験し,
実践に活かすことができる」ことです。(中略)
3点目に,「教育時事情報について個人で考え,
他者の意見を聴き,内容を深く捉えることができる」ことです。(中略)
最後になりましたが,
「教員を目指す」ことに情熱を持っておられる方も,不安がおありの方も,
何はさておき,
まずは塾長・副塾長に自らの想いを素直にぶつけてみられることを強くお勧めします。
必ずどんな想いも受け留めて導いてくださいますから。
K様/女性
(プレ塾生/現在,広島県公立中学校教諭)
(前略)
前者2つは知識注入型・講座の講師主導型の学びです。
後者2つは協働的学習型・個人学習型の学習者中心の学びです。
どちらかだけに偏ってはいけません。
特に,前者2つにおいて,どの学び場を選ぶかは非常に重要です。
私は15年,教員採用試験を受験し,数々の学びの場に行ってきたからこそ,
鍛地頭は本物だと分かります。
前者2つ・後者2つどちらも兼ね備えてくれるからです。
ぜひ,鍛地頭への門を叩き,
自らの内なる声を体現して,個人面接本番で面接官の前に座りましょう。
そして,ダイナミックに教育を捉え,
教員採用試験は通過点と思えるくらいの境地を目指していきましょう。
F様/男性
(受講者様)
皆様のご入塾・ご受講を心待ちにいたしております。まずは,児童生徒とあなたのために。
教師はファシリテーターであるだけでなく,クリエイターであれ!!
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〈いのち〉の大切さを知る体験講座
咄嗟の出来事(例:緊急事態への偶発的な直面)に対しての「対処・対応する能力」と,身の回りに生起する数々の問題を発見・解決する「問題解決能力」とは似て非なるものです。こどもたちに適切であると思われる言動等を求める前に,まずは私たち大人が誤った知識の習得や指導及び教育を行わないことが重要です。そのためには,大人(特に,「先生」,「講師」及び「インストラクター」などを名乗る者)の日常的な〈学び(研修と修養)〉が欠かせません。
1 救急救命士のお仕事を体験
8月25日(日),午前中に息子が通う小学校の環境整備*1に参加し,午後からは,広島国際大学でこどもを対象とした体験講座を受講しました。
小学校の環境整備は結構な重労働だったのですが(笑),今年も楽しく,みなさんとの会話を楽しみながら作業をさせていただきました。こどもたちが安心安全に学校生活を送られるようにと願いつつ。お陰様で(笑),現在,上半身の筋肉痛にやられております(笑)。
さて,夏休み最後のイベントとして受講した「子ども向け体験講座」。今回の講座内容は【救急救命士のお仕事体験】でした。
「とにかく体験!!」という趣旨で,2時間の講座の内,1時間50分はずっと動いている(体験している)といった,とても貴重な時間を過ごさせていただきました。
全体での学習の際,「救急救命士の仕事って何をするのか知ってる?」という問い掛けに対し,手を挙げしっかりと答えていた息子。
「苦しんでいたり怪我をしていたりする人を病院に着くまでに,命を助ける仕事だと思います。」
どこで知ったことなのか,言い回しは少々こなれてはいませんが(笑),バッチリな回答でした!!
「子ども向け体験講座」は基本的に小学生以上が対象。想定どおりに娘(4才)が「私もやりたいのに…。」と拗ねてしまったのですが,「じゃあ一緒にやろう!!」とある講師の方がマンツーマンで教えてくださったのです。本当に助かりました。誠にありがとうございました。
心肺蘇生法や異物除去,挿管*2といった医療行為も体験。学科内にある救急車にも乗り,サイレンが鳴っている状態でどのように心音が聞こえるのかを体験してみたり,患者役と救命士役を行いながらストレッチャーの操作をしてみたり。
そんな一生懸命なこどもたちを見ながら,私が救急車で2度搬送された時のことを思い出していました。
1回目は,肋間神経痛の激痛により車中で身動きが取れなくなった時。
2回目は,息子出産時に個人病院から大学病院へ緊急搬送された時。
いのちを救おうとする人たちの懸命の処置のお蔭をもって,私も息子も,そして娘も,今,ここに存在しているのだと感謝の気持ちが溢れました。
2 子どもと一緒に親も学ぶ
こどもたちに加わり,私も疑問に思っていることを講師の方に聞かせていただき,〈いのち〉について親子で本当にたくさんのことを学ばせていただきました。
「もし母ちゃんが倒れたら,〇〇(←息子の名前)と〇〇(←娘の名前)が助けを呼んだり,救急車が来るまで今日学んだことを行ってくれたりせんといけんのんよ。」
とこどもたちに言うと,とても真剣な顔をして頷いていました。
何か咄嗟のことに直面した時,大人でもどうして良いのかわからないことは多々あると思います。
しかし,幼い時から何かしらの体験(経験)をしておくことで,「「あっ!! そう言えば,これやったことがある!!」と思い出すことが大切だ。」と講師の方がおっしゃっておられました。
咄嗟の出来事(例:緊急事態への偶発的な直面)に対しての「対処・対応する能力」と,身の回りに生起する数々の問題を発見・解決する「問題解決能力」とは似て非なるものです。
日常生活の中で,さまざまな体験や経験をしながらひとりひとりが学び,それを〈生きて働く知識〉にできてこそ,咄嗟の〈対処・対応〉ができるようになると私は考えています。そのためには,「対処・対応する能力」も「問題解決能力」も,その他の「能力」も必要なのです。
〈学び〉が寡少で,どうして良いのか分からない人に,「目の前に人が倒れているから助けなさい!!」と言って何ができますか? それも,こどもだったら?
救急救命講習を受けた人でも,慣れていないとどのように対応して良いのかオロオロするものです。知識を持っていても,それを〈実の場〉*3で活用できるようにするには,持っている知識を「実の場」でアウトプットして,それを内省(reflection)・相対化(relativization)し〈生きて働く知識〉とする(≒〈相対化〉する)必要があるのです。
例えば,保育施設や学校では避難訓練や防犯訓練がありますよね。この訓練を真剣に取り組んでいるこどもが多いのは,保育所や幼稚園だと言われています。
なぜならば,幼児期は「訓練」だと知らずに訓練を重ねているから,しっかりとその場で〈対処・対応〉できるのです。
このような訓練に何度も何度も真剣に取り組むことでインプットされた知識を,遊びなどを通してアウトプットさせ,いざという時のために〈生きて働く知識〉にするのです。
〈いのちを守る〉という大切さを教えていくのは大人です。その大人が誤った知識で,こどもや周りの大人たちに平然とした態度で教えることは,関与する全ての人達に,後に大きな〈不幸〉をもたらします。
こどもたちに適切であると思われる言動等を求める前に,まずは私たち大人が誤った知識の習得や指導及び教育を行わないことが重要です。
今回,「子ども向け講座」を受講し,改めて〈いのち〉の尊さを実感するとともに,〈大人〉としての役割と日常に根差す〈学問〉の重要性を〈学び〉ました。今回の受講をただ「楽しかった」で終わらせるのではなく,日常生活にどのように生かしていけるのかを親子でしっかりと考え言語化し,アウトプット・内省(reflection)・相対化(relativization)していこうと思います。
最後に,集合写真の撮影を快諾してくださった救急救命学専攻のみなさま。
誠にありがとうございました!!
〈いのち〉を救う立派な救急救命士を目指して,これからも頑張ってくださいね。
2019(令和元)年9月2日
住本小夜子
© 2019 「鍛地頭-tanjito-」
*1:学校敷地内の草抜き。学校の先生方と保護者が協働作業を行う毎年恒例の行事。
*2:病気などで呼吸機能が低下または停止したとき、気管にチューブを挿入して肺に酸素を送る医療行為。平成16年(2004)7月より講習を受けた救急救命士も実施できるようになった。(コトバンク:気管挿管(読み)キカンソウカン,デジタル大辞泉の解説,出典 小学館)
*3:実際の場面のこと。
模擬授業は「パフォーマンス」では乗り切れない!!
0 プロローグ
本ブログは教員採用試験の受験者(教員志願者)向けに塾長が書き下ろしたものです。ただし,教員採用試験の受験者以外の皆様にも是非とも関心を持ってお読みいただきたいと切望する次第でございます。なぜならば,「教育」(の方向性は)一国を左右するため,私たちにとって最大の関心事であるべきだと考えるからです。また, 本ブログには現代の教育事情が赤裸々に綴られてもいるからです。学齢期や受験・就職期のお子様をお持ちの保護者だけではなく,全ての皆様が「教育」に関心をお持ちになり,来たるAI時代を迎える教育の現状を俯瞰され,次代を担う乳幼児・児童・生徒等に対し,ご支援とご助言を賜ることができれば幸いであると願うのです。
1 「模擬授業はパフォーマンスですよね?」
「本気でそう思っているの?」
「試験官に見せることが大切ですよね?」
「何を言っているの?」
教員採用試験を直前に控えた受験者との会話である。
「恐らく,この受験者は学習指導案が書けないのだ。学習指導案作成(の試験)も,模擬授業(の試験)も及第点は取れないな。」
私の率直な感想である。
パフォーマンス(performance)
コトバンク:パフォーマンス(読み)ぱふぉーまんす,デジタル大辞泉の解説,出典 小学館
1 演劇・音楽・舞踊などを上演すること。また、その芸・演技。
2 身体を媒介とした芸術表現。演劇などのほか、特に現代美術での表現をさしていう。「前衛書道家によるパフォーマンス」
3 人目を引くためにする行為。「街頭宣伝のパフォーマンス」
4 性能。機能。また、効率。「旧型でもパフォーマンスはいい」「コストパフォーマンス」
この受験者は上記引用中の「3」の意味合いで「パフォーマンス」とか「見せる」とか言っているのだろう。〈授業〉そのものに対する発想の台座が狂っている。「1」や「2」の意味合いで「パフォーマンス」という言表を使用していたのならば,それは「パフォーマンス(パフォーマー)」に対する冒瀆だ。
2 模擬授業は飽くまでも〈授業〉だ!!
思ったとおり,当該の受験者はさっぱり学習指導案が書けなかった。書き方の基本すら知らない。書くための「知識」がないのだ。だから「パフォーマンス」に逃避するのだ。逃避したところで,一体何を「パフォーマンス」する/「見せる」のだ?
学習指導案を書くためには,まずはしっかりとした当人の教科学力が必要である。学習指導案はその上に成り立つ。逆に言えば,学習指導案を一瞥すれば,書き手の教科学力がほぼ分かる。意外とこの〈事実〉が教育界では抜け落ちている。
模擬授業は学習指導案がカチッと書けていて初めて成立するものだ。
「学習指導案はざっくり書けば良い。「導入」だけの模擬授業だから,その構想に傾注する。試験時間も短いのだから,いちいち全体構想を考え,学習指導案を書いていたら,「導入」に向けた「パフォーマンス」を構想する時間が取れない!」
本時で付けたい力(指導目標/めあて)が前提にあり,全体構想があって「導入」や「まとめ」が成り立つ/意味性を持つ。最も大切な本時で付けたい力を抜きにして「導入」を考えている実態が受験者にあった。一体,それって,何を構想するのだ? 試験官に対して奇を衒うことか? だから,「パフォーマンス」なのか? 抑々「ざっくり」も書けていない。学習指導案が捻れている(本時の目標,めあて,まとめ,予想される学習者の姿(解答)及び評価に相関性が全くない。バラバラ)。模擬授業(の試験)を文字どおり「モギジュギョウ」と捉えているのだ。誰かにそう教え込まれているのだ。
模擬授業は飽くまでも〈授業〉だ!!
略筆すれば,まず眼前にいる児童・生徒(学習者実態)を想定(分析)し,単元計画に沿って(単元目標から)本時の目標/めあてを設定する。その上で,最適の学習方法,学習形態,提示資料及び教具等を考えながら,「展開」部のメインとなる学習活動(や質問,発問―発問間でもレベル差を考えよ!―)を考え,それを生かすために相応しい「導入」を構想する。その際,学習指導要領を熟知しておくことが必要だ。
「短い試験の時間の中で,学習指導案を書き,「導入」の構想を練らなければならない。時間配分から考えれば,「導入」の構想に比重が掛かるのは当たり前ではないか! 当然,学習指導案の作成には時間を掛けず,ざっくりと書くしかない!」
「これまで学習指導案作成の練習にどれだけ時間を掛けてきたのか? 書いた学習指導案をプロに見てもらったのか? 練習に時間を費やし鍛錬していれば,(試験程度の)学習指導案の作成にそれほど時間は掛からないものだ!!」
3 〈授業〉は教師そのものを投影する〈教師〉の総合体である
今回の最後に一言。
〈授業〉というものは,学習指導案が書ければできるというものではない。先述した教師(教授者)の教科学力は大前提となる。無論,授業スキルも必要だ。
意外と気づかれていないものは〈生徒指導力〉だ。「学習指導と生徒指導とは車の両輪」などとよく言うが,まさにそのとおりだ。児童・生徒(学習者)に対する十分な理解(学習者の実態把握)があって,教授者の人間関係形成能力(≒広義の「コミュニケーション能力」)がモノを言う。それは教室の〈内/外〉で必要だ。つまり,「学習者―教授者」間の信頼関係があり,授業規律の確立した,生徒指導の三機能を生かした授業づくりがあって,ねらう〈学力〉が学習者に付くのだ。
さらに,最近,特に思うことは「教授者に〈問題解決能力〉が身に付いていることが重要だ。」ということだ。ところが,〈問題解決能力〉は今になって求められ始めた〈能力〉ではない。昔から求められている〈能力〉だ。ただし,現代の社会システムがあまりにも複雑な様相を呈し始めた。社会を構造化する繊維は絡まり合っている。だが,そうかと言って,その一方では,「価値観の多様化」というものの,「価値」自体が〈価値性〉を喪失し,「エゴイズム(egoism)」が蔓延,多層化しているのが実態だ。「環境問題」を初めとする地球規模の難問が湧出しているにもかかわらず,未だ解決の糸口は見つかっていない。したがって,〈問題解決能力〉の向上が声高に叫ばれるのも当たり前と言えば当たり前と言える。時代の要請とも言える〈問題解決能力〉は大人をもこどもをも対象とするものであるから,必然的に教育界に求められる〈能力〉となる。その〈能力〉を教員が身に付けていないとしたならば…。
一教師は一研究者なり。
当塾がこのように語る所以がそこにある。大学の卒業論文程度の〈学力〉では物足りない。その左證は学校現場にある。特に,「総合的な探究の時間」が本来の意味で〈探究〉の時間になっているのか?
今,教員に〈研究能力〉が求められている。こうした〈能力〉も授業を実践する底力の一つである。模擬授業を一瞥すれば,大体見て取れる〈能力〉の一つでもある。
もう1点。「教師はファシリテーターであれ。」と言われて久しい。
ファシリテーター
コトバンク:ファシリテーター(読み)ふぁしりてーたー,ナビゲート ビジネス基本用語集の解説,出典 ナビゲート,アンダーライン及びマーカーは筆者による。
ファシリテーターとは、ファシリテーションを専門的に担当する人のことをいう。 ファシリテーター自身は集団活動そのものに参加せず、あくまで中立的な立場から活動の支援を行うようにする。例えば会議を行う場合、ファシリテーターは議事進行やセッティングなどを担当するが、会議中に自分の意見を述べたり自ら意思決定をすることはない。これにより、利害から離れた客観的な立場から適切なサポートを行い、集団のメンバーに主体性を持たせることができるとされる。「調整役」「促進者」などと訳される。
しかし,AIの本格的な導入を目前に控え,上述したような難題を解決する可能性が高まる中,AI導入期には〈問題解決能力〉と共に〈創造性〉が必須となる。それは〈教師〉にとっても必須の〈力〉である。授業構築だけではなく,教育活動全般に及んで必要とされる〈力〉と言えよう。
教師はファシリテーターであるだけでなく,クリエイターであれ。
これも当塾の教えの一つである。例え「導入」部であれ,一瞥すれば,教科学力・授業構想から授業スキルに至るまで,教授者の〈創造性〉を見て取れるものである。
だが,よく考えるまでもなく,〈創造性〉も〈教育〉の〈不易〉の代表なのである。これまたこれから初めて求められる〈力〉ではない。
模擬授業を侮るなかれ。〈授業〉は教師そのものを投影する〈教師〉の総合体である。
4 まとめ
教員採用試験における模擬授業を「パフォーマンス」で乗り切ることはできない。そうした「思い」が生起する原因は〈授業〉の何たるかを知らないか,〈授業〉を軽んじているかのどちらかにある。つまり,〈真面な〉教員の発想ではない。ということは,「〈授業〉は教師そのものを投影する〈教師〉の総合体である」ことから,〈授業〉を軽んずることは〈教師〉そのものの存在を〈軽んずる〉ことになる。
遺憾ながら,これが風潮なのかもしれない。様々な要因が憶測されるところではある。ただ,現況として学校現場に「授業」を軽んずる傾向がある。ここでは,それが目的ではないので,その傾向の要因を分析することはしない。
しかし,新学習指導要領にこっそりと垣間見えるように,系統学習と問題解決学習との止揚(aufheben)を図ろうとするならば,改めて〈授業〉を見直すことが喫緊の課題である。
教員採用試験の受験者は少なくとも前述したくらいの〈授業〉観を持って,試験に臨んで欲しい。筆者は(乳幼児・)児童・生徒(学習者)と共に,教師(教授者)が〈授業〉を〈共創造(co-creation)〉する日が到来することを願って已まない。
さて,上述してきたような〈資質・能力〉を完璧に引っ提げて教員採用試験に臨むことは確かに至難の業だろう。だが,こうした高みを目標に設定し,来る日も来る日も教育事象にかかわる課題に真摯に取り組み,学習指導案,模擬授業,小論文,個別・集団面接,そして市販の問題集等の練習を重ね,ある程度の〈総合的な実力〉を蓄えたならば,例えば,総合体としての〈教師〉が試される模擬授業で何も「(取り繕う意味の)パフォーマンス」を行う必要は一切ないのである。なぜならば,〈自己の内なるパフォーマンス〉が試験の場において必然的に発露するからだ。
しかも,その蓄えられた〈総合的な実力〉は,近いうちに出会うであろう(新しい)(乳幼児・)児童・生徒に対して発現するのである。
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お手伝いからの〈学び〉の発展―「自己有用感」と「食育」―
この夏休み,家庭内の取り組みとして「お手伝いお当番さん」1)を行っています。どのようにすれば効率よく当番の作業ができるのかを自分たちで考え実践するこどもたちの姿は,とても頼もしく思えます。こどもたちも私も徐々にきれいになっていく家の様子を見ながら,それぞれがそれぞれの作業を行い,終わった後の達成感も心地よい。日々の「お手伝いお当番さん」は順風満帆に捗っていたのです。
そんなある日,息子(軽度自閉スペクトラム症)が新たな「お手伝い」の提案を口にし始めました。
その「お手伝い」とは…
1 「当番表」の修正
夏休みに家庭で取り組む「お手伝いお当番さん」。この取り組みで使用する「当番表」を塾長に拝見していただき,とても素敵なアドバイスを頂戴しました。
この当番表そのものに,お手伝いをしたことの評価が視覚的に把握できるような工夫を入れ込んだら? そうしたら,もっと楽しくお手伝いができるのでは?
さらに,お手伝いに取り組む娘からの指摘もありました。それは,「お手伝いの内容が文字で書かれているため,何をするのか分からない」という内容でした。
したがって,早速「当番表」の修正に取り掛かったのです。
修正した箇所は2点。
- 評価のために似顔絵を描いたイラスト磁石を追加
- お手伝い項目(表の縦軸)にイラストを追加
それにもう1点,各人の名前の代わりに用いていた似顔絵マジックをひらがなに変更してみました。
名前を似顔絵イラストからひらがなに変更した理由は,娘が自分の名前をひらがなで書く練習をし始めたからなのです。塾長がご指摘くださった,文字の「読み」「書き」の学習にもつながることを考えて,名前をひらがな表記に改めました。ただ,家族みんながひらがな3文字の名前であるため,名前が記載された「当番表」をパッと見ても区別が付き難いかもしれないことを想定し,名前を色別で表記することにしました。
次に,お手伝い項目にイラストを追加した理由をもう少しだけ詳しく述べます。息子は,習っていない漢字でもイメージで読めるという特性があります。(わからない時は,ちゃんと訊いてきたり調べたりしています。)ですが,娘はひらがなの読み書き練習を始めたばかりなので,当番の何をして良いのか理解できず,毎回「今日のお当番はどこですか?」と聞いてきます。ところが,どうもその「聞く」という行為そのものが嫌なようで,端から「分からんもん!!」と不貞腐れることがありました。
娘の心境として「私だけが(当番の何を行うのか)わからない…。」という孤立感を抱いていたのだと推測できたのです。息子と私は,「当番表」を一瞥すれば,何のお手伝いを行うのかを認識できるのですが,娘だけが理解できないという「仲間外れ」の状態にあったわけです。これでは娘が抱いていた折角の主体性(自主性)を損ねることになってしまいます。こうした理由から,家族みんなで取り組むための「一体感」を一人ひとりが感じられるように,お手伝い項目にイラストを追加することにしたのです。
さらに,お手伝いを終えたところに,似顔絵イラストを貼った磁石を置くというひと手間を加えることに。
この作業によって,その日のお手伝いの中で終えたものと終えてないものとの見極めが容易につくとともに,全お手伝いの終了時には,全て終わったという達成感を視覚を通じても感じることが出来るようになりました。
トークンシステムの「お手伝い」の欄も2列に区切ることにしました。毎日,各人2種類の「お手伝い」を熟しているので,それらを完遂すれば,2つのシールを2列に区切られた一マス一マスに貼っていきます。こどもたちは日に日に貯まっていくシールが楽しみのようです。
「お手伝い」を完遂することは第一目標ですから,「お手伝い」を終えたら表内に似顔絵イラストマジックを付けることに意味はあると思います。自己に与えられた役割分担の責任を果たすことは大切なことですから(責任感の育成)。昨今,教員の世界でも矢鱈「協働性」が叫ばれます。―このことは,裏返せば,これまでの教員の世界は,「協働性」が希薄であった左證でもあるのですが。―確かに,AI時代を迎えている現代の有する喫緊の課題として,他者と協働できる能力は必須と言えます。したがって,他者と協働するためには自らの役割に対する責任遂行能力が必要なわけで,そういう意味において,本取り組みは有意義であると言えるのです。
さらに,評価に絞って述べれば,例えば,各人の似顔絵イラストマジックに「ニコニコ顔」「普通の顔」「悲しい顔」などがあれば良いと思うのです。つまり,「お手伝い」がよくできたときは「ニコニコ顔」,あまりよくできなかったときは「悲しい顔」,それ以外は「普通の顔」というように,「お手伝い」の出来具合に応じて付ける似顔絵イラストマジックを変えるのです。
それを誰が評価して「ニコニコ顔」「普通の顔」「悲しい顔」にするのかと言えば,まずはその「お手伝い」を担当した本人が行い,表内の指定の場所に付けるのです。評価には他者評価などいろいろな種類がありますが,評価の基本は「自己評価」です。最初に行為者自らが自らを振り返る。この力が大切なのですね。次の発展のために。その上で,自己評価された評価を見て,他の者が評価する(他者評価)。そこで,「自己評価」の修正が必要であれば,当該の行為者が評価の修正を図るのですね。「自己評価」や「他者評価」を通して,良くできているところは今後も伸ばす,できていないところは改善する。このように評価能力を養うことは,自己成長のためには必要なことなのです。
その際,「自己評価」したその理由を他者に説明するともっと良いですね。他者もその理由を聴いてより的確に「他者評価」できるようになりますから,評価そのものの精度が上がるわけです。勿論,「他者評価」する評価主体も評価の理由を述べるべきですよね。
えっ,「そんな面倒臭いことをこの忙しい毎日の中でできるものか!」ですって。その発言って,自己中だと思いません? 可愛いかわいいお子様の学習の機会を奪っていますよ。10分でも,5分でも「評価の時間」を取れませんか?
「お手伝いお当番さん」に取り組むことにより,息子と娘の自己有用感が育まれていると考えるのです。
付記
この「お手伝いお当番さん」は「一家団結」をも企図したものです。「一家団結」とは,結局,自己と他の家族構成員との親密な関係性を一層堅固にすることです。つまり,〈他者性〉を重要視した取り組みなのです。(a)
そうした視点に立った時,数多くある世の中のブログ等において「自尊感情」,「自己肯定感」,「自己存在感」及び「自己有用感」などの概念語が示す概念範疇が的確でないものを散見するようになりました。そこで,ここにおいて,文部科学省 国立教育政策研究所 生徒指導・進路指導研究センターの考え方を引用し,それらを整理しておきたいと思います。
その他,前掲の「生徒指導リーフ」には,次のような記述があります。
♦日本の児童生徒の場合には、他者からの評価が大きく影響する。
前掲生徒指導リーフ18
♦ 「褒めて ( 自信を持たせて ) 育てる」 という発想よりも、「認められて ( 自信を持って ) 育つ」という発想の方が、子供の自信が持続しやすい。
♦他者の存在を前提としない自己評価は、社会性に結びつくとは限らない。
前掲生徒指導リーフ18
♦ 「自己有用感」 に裏付けられた「自尊感情」 が大切。
つまり,これら4つの記述(◆)に通底している考え方に〈他者性〉が認められるということです。(b) そういう意味において,(a)及び(b)から「 「お手伝いお当番さん」に取り組むことにより,息子と娘の自己有用感が育まれていると考えるのです。 」と既述したのです。
さて,そうこうしているうちに,ある日のこと,息子の新たな成長を物語るある動きが起こったのです。
2 息子からの要望
最近,ありがたいことに,勤務後,帰宅して2時間後にはまたパソコンの前に座って仕事をするという機会が増えています。勿論,自主的業務です。そのような私の姿を見ていた息子が少し前から私に言っていたことがありました。
「母ちゃん!! 僕がご飯つくるけん,仕事をしていいよ!!」
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「思いやり」と温情主義―ポストモダン終焉期の実相〔12-2〕
経団連会長は「大学は,理系と文系の区別をやめてほしい」と大胆提言するのか」>今の日本の学生にこれだけは求めたいこと:経団連・中西宏明会長×経営共創基盤(IGPI)冨山和彦CEO 就活対談#2,「文春オンライン」編集部,2019.5.29,下線は筆者が施しました(以下,同様)。 …c「なぜ
茂木健一郎(2019.4):『本当に頭のいい子を育てる 世界標準の勉強法』[キンドル版],第2章,英語を話す人の八〇%は第二言語として話している,検索元 amazon.com
コトバンク:温情主義(読み)おんじょうしゅぎ(英語表記)paternalism,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説,出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
山川出版社,p.124,原文朱書き長尾達也(2001.8):『小論文を学ぶ―知の構築のために―』,
コトバンク:ノーマライゼーション(英語表記)normalization,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説,出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
コトバンク:脱中心化(読み)だつちゅうしんか,だつちゅうしんか【脱中心化】,出典 三省堂
【関連 「The パクるな!!」シリーズ】
住本家で起きる謎の怪奇現象?!
住本家では夜な夜な背筋の凍りつくような謎の怪奇現象が起きています。
それも,ほぼ毎日…。
その様子の撮影に成功したので,ブログに認(したた)めます。
それでは,どうぞ,ご覧ください!!
こどもたちは,毎日決まって20時50分に蒲団に入り,眠りに就きます。
こうして,こどもたちが寝静まると,少しずつ,少しずつ不可解なことが起きていくのです。
余りの恐怖に,私はいつかこの怪奇現象を捉えてやろうと,カメラを携え,待ち構えていました。
ある日のことです。
ついにその時がやってきたのです!!
毎晩,住本家で起きている不可解な怪奇現象の一部始終をお伝えいたしました……。
まあ,敢えて誰に似たとは言いませんが……(汗・笑)
こどもたちが寝床を入れ替わりながら,就寝時の定位置に戻ってくる早朝,「兄ちゃんアラーム」が私を快適な眠りから呼び覚ましてくれるのです。激痛と重みと共に。そう私の顔面には寝返りを打つ息子の片足が降り注いでいるのです。まるで,毎夜,兄ちゃんの顔面に膝蹴りを喰らわす妹のように。
そして,「兄ちゃんアラーム」が鳴り終わるころ,携帯電話のアラームがけたたましく朝の時を告げるのです。
少し調べてみました。
こどもの寝相の悪さは「脳がしっかり休めている証拠」なのだそうです。また,寝相によって「こどもの深層心理」が読み取れるのだとか。
参考
・寝相は悪いほうが安心!?子どもの寝相が悪い理由,近藤 浩己(2016.06.01)
・寝相で読み取る子どもの深層心理!寝相タイプ別7選!,Quiizu~女性のためのメディア~
息子と娘は,矢印(写真)の流れに沿って約1時間おきに移動していきますが,これは,もしかすると睡眠リズムに関係しているのかもしれません。
睡眠中は「レム睡眠」という浅い眠りと、「ノンレム睡眠」という深い眠りが交互に現れます。
良い睡眠で快適生活,社会保険出版社(監修:古賀良彦(杏林大学医学部精神神経科学教室教授),2019.07.08 最終アクセス)…a
レム睡眠時の脳は覚醒状態に近く、体は弛緩します。夢を見るのはこのときが多く、体は弛緩していて動きません。意識があるのに動けない「金縛り」は、この状態のときになります。
ノンレム睡眠は深い眠りですが体は動き、寝返りも打てます。成長ホルモンをはじめとするホルモン分泌などもこのときに行われています。
レム睡眠とノンレム睡眠は図のように繰り返し、始めはノンレム睡眠がより深く長く出現し、起きる前には浅めで短いレム睡眠が多くなっていくのが一般的な睡眠のリズムです。このリズムは1回1時間半くらいで繰り返し、4~5回繰り返すと、熟睡感と快適な目覚めが得られるといわれています。
身体って不思議ですね。意識をしていなくても,何らかの作用が働いているのですから。
こどもたちの寝姿(寝相)をよくよく観察してみると,それぞれの動きが面白い!! ズルズルと率先して移動しているのは息子なのですが,それを追うように娘は付いていきます。同じような恰好で寝ていたり,息子が寝返りを打つと,瞬間,娘も寝返りを打つ。息子と娘で回転の方向が反対になることもある。いわゆる「シンクロ寝」ですよね。
「シンクロ寝」とは,「親子やきょうだいで,同じ寝相をしていること」です。しかも,この「シンクロ寝」は親子やきょうだいに限らず,親密度が高く信頼関係がしっかりしているペットと飼い主にも見られるそうです。
そう言えば,関連付けて良いのかどうか…,岸根卓郎(2016.5)「量子論から解き明かす「心の世界」と「あの世」――物心二元論を超える究極の科学」([キンドル版],検索元 amazon.com…a)に,次のように「アスペの実験」が紹介されています。
ついで、一九七四年になって、この「ベルの定理」を立証しようと実験に取り組んだのが、アラン・アスペ と、その同僚たちであった。
この実験で重要なことは、彼らが、粒子は「電気量」のほかに「スピン」という特性をも持っていることに着目し、その特性を「ベルの定理の立証実験」に利用したという点である。
ここに、粒子の「スピン」とは、粒子が「コマ」のような 「軸」を持っていて「回転」する性質のことであるが、詳しくは以下のとおりである。すなわち、いま「スピン」(回転)がゼロであるような二つの粒子の系を考えた場合、その特性とは、
① かりに、そのうちの片方の系の粒子のスピンの軸の方向が上向きになれば、もう一方の系の粒子のスピンの軸の方向は必ず下向きになること、つまり粒子のスピンの回転方向は両者で必ず左右反対になること
②そのときの粒子のスピンの回転の速度は両者つねに等しいこと
である。その意味は,
「二つの系の粒子はどのような位置にあっても,互いのスピンの軸の方向(回転方向)は必ず正反対で,その回転速度(運動量)はつねに等しい」
ということである。
前掲書a,第二部 量子論が解明する心の世界 四 量子論への支持――コペンハーゲン解釈に対する支持 2 アスペの実験による立証
むむむっ,人間も素粒子でできているということは,上記の引用が当てはまるのですかね…,「息子が左に寝返りを打てば,同系の娘は右に寝返りを打ち,その寝返り(スピン)の回転の速度は両者つねに等しい」なんて…。
そこで、いまAとBの二つの粒子が互いにそれぞれの領域で反対側へと遠ざかっている場合、実験者が、その途中で、磁場装置によって、かりにA粒子のスピンの軸の方向を上向きから下向きに変えたとすると、不思議なことに、このときB領域に向かっていたB粒子は、なぜかA粒子のスピンの軸の方向が上向きから下向きに変わったことを「瞬時」に知り、スピンの軸の方向を下向きから上向きに変えることになる。つまり、A粒子のスピンの回転の方向を左向きから右向きに変えたとすると、不思議なことに、このときもB領域に向かっていたB粒子は、なぜかA粒子のスピンの方向が左向きから右向きに変わったことを「瞬時」に知り、スピンの方向を右向きから左向きに変えることになる。ということは、
前掲書a,第二部 量子論が解明する心の世界 四 量子論への支持――コペンハーゲン解釈に対する支持 2 アスペの実験による立証
「B領域の粒子は、A領域での情報(実験者の意思) を〈瞬時〉に(超光速で)感知して、即座にその存在形態を反対方向に変化させる」
といえよう。しかも驚くべきことに、このことはかりに二つの粒子が「宇宙的規模」でいかに遠く離れていても、理論的には「まったく同じ」であるという。この現象は「量子テレポーテーション」とも呼ばれているが、この実験の持つ重要性は、
「二つの粒子がどのように遠く離れていても、B領域の粒子の状態は、A領域 の〈実験者の意思〉(人の心)によって、〈瞬時に変化〉すること(量子テレポーテーション)を完全に立証している」
ということである。
つまり,我が家の各部屋は「宇宙的規模(距離・空間)」で存在していないのですけれど(笑),仮に息子と娘が別々の部屋で眠っていても, 「息子が左に寝返りを打てば,同系の娘は右に寝返りを打つ」ということなのでしょうか…
うん…?
ちょっと待って…。
ということは,私もこどもたちと同じように,夜な夜なグルグル回転しているのかしら…(笑)
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ポストモダン終焉期の実相〔12-1〕
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6 ポストモダン終焉期の大学入試
(1) スケールの大きい人間であれ
皆さん,こんにちは。
生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典です。
先日のことです。本シリーズを綴っていて,ふと思い起こしたことがありました。
娘が高校3年生の時のことです。娘は一人の大学受験生でした。娘の目標校は娘が本当に学びたいことを学ぶことのできる大学でした。それは我が家の,というか,私の指導方針でした。勿論,娘はその指導方針に納得していました。なぜならば,親父が怖いからではなく,また親父に威厳があったからでもなく,在籍していた高校の「総合的な学習の時間」で探究的な学習※1を行ったことが契機となり,その探究の続き,つまり,進学したら,同じテーマで本格的に研究したいとの思いを確と胸中に秘めていたからでした。
「((娘の)研究テーマは)学問の領域的には結構複合的だから,目標校を定めるのに苦労したけど,〇〇大学□□学部ならば,その思いが叶いそう。」
これが娘の志望理由だったのです。この言葉を耳にした私は内心とても喜びました。
[よっしゃ!! それでええ。志望理由が,偏差値が高い,低いなど,(偏差値が)どうのこうのではないからな。]
その娘が,ある日,私の仕事部屋にひょっこりと顔を覗けて,こう言ったのです。
「父さん,今日,同じ学年の理系の男子(生徒)たちが話をしているのが耳に入ってきたんよ。その子たちは「(自分の)言語能力がないから,数学の問題文を正確に読み取れない(読み取るのに時間が掛かる)。常日頃から,国語をしっかりと勉強しておけば良かった。」と口惜しそうに言っていたわ~。その話を聞いて,[(かつて高校の国語教師だった)父さんが日頃言っていることだなあ~]と思ったんよ。父さんの言うことも,偶(たま)には当たるんだなあ~って!(笑)」
「五月蠅い(うるさい)!! 「偶に」とは何事じゃ!! わしは常にホンマのことしか言わんわい!!(笑)」
「きゃはっ!!(笑)」
「同じ学年の理系の男子(生徒)たち」はいずれも東大志望だったそうです。娘の周囲には東大や京大を志望する生徒たちが大勢いました。
[(ある意味,)この「男子(生徒)たち」は優秀だなあ。「言語能力」の重要さを実感しているのだから。]と私は思いました。
そう思いながら,同時に私は次の一節を想起していました。
情報を伝達するうえで,読む,書く,話す,聞くが最重要なのは論を俟たない。これが確立されずして,他教科の学習はままならない。理科や社会は無論のこと,私が専門とする数学のような分野でも,文章題などは解くのに必要にして充分なことだけしか書かれていないから,一字でも読み落としたり読み誤ったりしたらまったく解けない。問題が意味をなさなくなることもある。かなりの読解力が必要となる。海外から帰国したばかりの生徒がよくつまずくのは,数学の文章題である。読む,書く,話す,聞くが全教科の中心ということについては,自明なのでこれ以上触れない。
藤原正彦(2016.4):『祖国とは国語』[キンドル版],国語教育絶対論,(二)国語はすべての知的活動の基礎である,検索元 amazon.com,下線は筆者が施しました(以下,同様)。…a
当たり前のことと言ってしまえばそれまでですが,藤原氏のような偉大な数学者がこのように語っておられるところが興味深いのです。巷間で言う「(教科としての)国語ができれば,他の教科(科目)はできるようになる。」というやつです。
前回の本シリーズで,私は「地頭」を定義しました。その上で,それを「鍛える」ということは各人の〈言語能力〉と〈言語運用能力〉を〈鍛える〉ことであり,それが最重要であると述べました。また,〈言語能力〉と〈言語運用能力〉を鍛えれば,「感性・情緒」も豊かになるという旨の指摘を行っています。※2
これら情緒の役割は,頼りない論理を補完したり,学問をするうえで重要というばかりでない。これにより人間としてのスケールが大きくなる。
前掲書a:国語教育絶対論,(四)国語は情緒を培う,検索元 amazon.com
地球上の人間のほとんどは,利害得失ばかりを考えている。これは生存をかけた生物としての本能でもあり,仕方ないことである。人間としてのスケールは,この本能からどれほど離れられるかでほぼ決まる。脳の九割を利害得失で占められるのは止むを得ないとして,残りの一割の内容でスケールが決まる。ここまで利害得失では救われない。
ここを美しい情緒で埋めるのである。
娘との「対話」の中で,私の脳裡のスクリーンには,この引用と大学入試の現況とが二重写しとなり,
- 「「利・得」=「進学の目的が偏差値の高い大学への合格,「頭がいい」と言われている大学への合格」
- 「偏差値の高い(「頭がいい」と言われている)大学への合格=国の行政庁や大手企業等への就職=将来の安定した富裕な生活」
が描き出されるとともに,来たる一元論的トランスモダンの時代では,
- 「利・得」≠ 「進学の目的が偏差値の高い大学への合格,「頭がいい」と言われている大学への合格」
- 「 偏差値の高い(「頭がいい」と言われている) 大学への合格≠国の行政庁や大手企業等への就職≠将来の安定した富裕な生活」
とする相対概念がくっきりと映し出されていたのです。そして,娘の無邪気な笑顔を見つめながら,[〇〇(=娘の名前)には,スケールの大きい人間になって欲しい。]と無言で語り返したのでした。
(2) 〈地頭力〉を測る〈大学入試〉の必要性
先日〔2019.5.29(水)〕,文部科学省は第1回「大学入学共通テスト」の実施大綱案を発表しました。それによると,
- 実施日は2021年1月16日(土),17日(日)である。
- 科目は「大学入試センター試験」と同様(「英語」を除く)である。
- 「英語」は大学入試センターが認定した民間試験の2回までの受験結果(2020年4~12月分)を使用する。
- 本年6月上旬に正式な大綱を定める予定である。
- 同年6月中旬に問題作成の方針や配点を公表する予定である。
ということですが,就中重要なことは,
(評価の対象=測る能力として,)「知識・技能」だけではなく,「思考力・判断力・表現力」を重視する
ということです。
因みに,6月7日(金)には「令和3年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト出題教科・科目の出題方法等及び大学入学共通テスト問題作成方針について」(独立行政法人 大学入試センター)が公表されました。それによると,次のとおりです。
第1 問題作成の基本的な考え方
○ ⾼等学校教育の成果として⾝に付けた,⼤学教育の基礎⼒となる知識・技能や思考⼒,判断⼒,表現⼒を問う問題作成
平成 21 年告⽰⾼等学校学習指導要領(以下「⾼等学校学習指導要領」という。)において育成することを⽬指す資質・能⼒を踏まえ,知識の理解の質を問う問題や,思考⼒,判断⼒,表現⼒を発揮して解くことが求められる問題を重視する。
また,問題作成のねらいとして問いたい⼒が,⾼等学校教育の指導のねら いとする⼒や⼤学教育の⼊⼝段階で共通に求められる⼒を踏まえたものとなるよう,出題教科・科⽬において問いたい思考⼒,判断⼒,表現⼒を明確にした上で問題を作成する。○ 「どのように学ぶか」を踏まえた問題の場⾯設定
令和3年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト問題作成方針 ,pp.1-2
⾼等学校における「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善のメッセージ性も考慮し,授業において⽣徒が学習する場⾯や,社会⽣活や⽇常⽣活の中から課題を発⾒し解決⽅法を構想する場⾯,資料やデータ等を基に考察する場⾯など,学習の過程を意識した問題の場⾯設定を重視する。
出題教科・科⽬の問題作成の⽅針
(1)国語
別添,p.1
○ ⾔語を⼿掛かりとしながら,⽂章から得られた情報を多⾯的・多⾓的な視点から解釈したり,⽬的や場⾯等に応じて⽂章を書いたりすることなどを求める。近代以降の⽂章(論理的な⽂章,⽂学的な⽂章,実⽤的な⽂章),古典(古⽂,漢⽂)といった題材を対象とし,⾔語活動の過程を重視する。問題の作成に当たっては,⼤問ごとに⼀つの題材で問題を作成するだけでなく,異なる種類や分野の⽂章などを組み合わせた,複数の題材による問題を含めて検討する。
○ 記述式問題は,⼩問3問で構成される⼤問1問を作成する。実⽤的な⽂章を主たる題材とするもの,論理的な⽂章を主たる題材とするもの⼜は両⽅を組み合わせたものとする。⽂章等の内容や構造を把握し,解釈して,考えたことを端的に記述することを求める。⼩問3問の解答する字数については、<ママ>最も⻑い問題で80〜120字程度を上限として設定することとし、 <ママ>他の⼩問はそれよりも短い字数を上限として設定する。
高校・大学の教育を一体となって変革する高大接続改革の柱が「大学入学共通テスト」です。その理念(特色)として「思考力・判断力・表現力」を重視することを掲げているのです。つまり,これまでの「知識・技能」に偏った入試制度――これは入試観,入試観ということは求められる人材観とも言えるわけですが,――への反省を土台にしているということです。
- 「大学入試センター試験」を初めとする大学入試が「知識(・技能)」,延いては「受験テクニック」を測定の対象とすることにより,高校での教育もそれに対応するため,「知識(・技能)」及び「受験テクニック」偏重の教育に埋没してしまった。
- そして,受験産業界が利益目的(教育=金)のため,そうした傾向に拍車を掛けることにより,受験生はやらされる,受け身の学習ロボットとなった(=「地頭」を「鍛」えることが軽視された)。
- その結果,知識(量)はあっても,自らそれを活用できず,上司などの他者から指示を受けなければ,自ら行動を取ることのできない人材が世に溢れた。
- これまではそれで良かった。上司の命令に受け身である部下は使いやすかった。
- しかし,AIが導入されてくることにより,従前の「知識(情報)」やその処理は全てAIに任せれば良くなった。
- 受け身一身の部下はAIに取って代わられることになった。
- そこで必要とされるのは,AIにできない「創造( creation )」(AIに知識(情報・データ)を蓄積し,必要に応じて解析,加工させ,その結果を用いながら創造する〈新たな文化〉)であり,人間にしかできない〈対話〉による〈共創造(co-creation)〉であった。
- そうした優れた営為を行うためには,物事を多角的・多面的・総合的に捉えることのできる多視点を有する〈思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)〉を身に付けた人材が必要となった。
要するに,(AIでは不可能な)「地頭」が「鍛」えられた人材(「地頭力」)が求められるようになったのです。そして,その「地頭力」を茂木健一郎氏は「自分で考えられる力」,「探究できる力」と表現されています。
日本のこれまでの教育は,正解があってその通りにやるのが主流でした。しかし,繰り返しますが,AIが導入される未来においては,指示待ち人間は必要ありません。自分で仕事を見つけて,クリエイティブかつ論理的(きちんと筋道を立てて考えること)になることが求められています。そこでは,自分で考えられる力や探究できる力が必要です。
茂木健一郎(2019.4):『本当に頭のいい子を育てる 世界標準の勉強法』[キンドル版],第2章,英語を話す人の八〇%は第二言語として話している,検索元 amazon.com…b
各論的な言い方を致しましたが,こうした事情から――これだけの事情ではありません。――現行の「大学入試センター試験」とは異なった, 「思考力・判断力・表現力」をも測定の対象とする「大学入学共通テスト」が実施される運びとなり,国語と数学に記述式問題が導入されることとなったと言って過言ではないでしょう。この新テストは飽くまでも初の試みですから,事の正否を即断することはできません。しかし,その「社会(受験)システム」としての「テスト」を受験する受験者は(可哀想にも)居るわけですし,国語と数学への部分的な記述式の導入が本当の意味で,受験者の総合的な〈思考力・判断力・表現力〉を測定できるかと言えば,間違いなく「NO!」でしょう。※3しかも,僅少な,部分的に過ぎない記述式の導入ですから,この先,当分の間,現行の「受験システム」は作動し続けます。さらに,「思考力・判断力・表現力」を問う設題に対する受験産業の「小手先テクニック試論」が横行していくのでしょう。
しかしながら,〈新しい時代(=ポストモダンの時代が終焉を迎え,一元論的トランスモダンの時代に移行しようとしている時流と「令和」とが必然的偶然によって一致した時代)〉を迎え,求められる人材が変容し,そのため「受験システム」が若干シフトし始めたことは〈事実〉であると言えるのです。
だからこそ,それこそ「小手先」ではなく,今後〈抜本的な大学入試〉の見直しが必要なのです。大学入試が変革されれば,自ずと高校入試・中学入試はその相貌を変じていくことでしょう。「大学入学共通テスト」なんぞは廃止し,各大学が各大学に必要な「地頭(≒探究力(=言語能力・言語運用能力))」を精査する〈人物(地頭)本位の入試〉を展開すべきなのです。そのためには各大学が各大学の〈オリジナリティー(=アドミッションポリシー)〉を確立しておくことが条件となります。ただし,かつての一期校・二期校時代のように,難問・奇問が受験界を闊歩するようではいけません。(参考:次節「(3) 「エリート言説」の〈相対化〉」)そうかと言って,各大学が各大学に必要な「地頭」を求めるための〈オリジナリティー(アドミッションポリシー)〉を真摯に考えるならば,生き残りを掛けた大学も満更難問・奇問ばかりとはいかないと思うのです。
(3) 「エリート言説」の〈相対化〉
前節で「大学入試センター試験」から「大学入学共通テスト」への移行の要因について,「思考力・判断力・表現力」を基軸とした考察を行いました。ただし,この移行には,その他の要因も考えられるところです。その一例をご紹介しておきます。
かつて入試時期が一期校(旧7帝大など)と二期校に分かれていた国公立大学では、学習指導要領の範囲を超えた難問・奇問の出題が横行していました。
大谷奨・筑波大学教授によると、共通一次を導入した狙いは、個別試験から難問・奇問を排し、二次試験では内申書の重視や面接なども含め多様な選抜を行うことにより、加熱していた「受験戦争」を緩和するとともに、大学間の格差もなくすことが期待されたといいます。しかし実際には、共通一次による足切り〈ママ〉が横行したり、入試時期が一本化されたことで偏差値偏重による序列化が逆に進んだりする、という事態が起こってしまいました。
そこで、1987年度には共通一次で受験機会の複数化が導入されました。さらに、国公私立を通じて各大学が自由に利用できる「アラカルト方式」の共通試験を目指したのが、センター試験でした。
(中略)
しかし、多くの私大が参加したことによる受験者層の「下方拡大」や、アラカルト方式による複雑な受験パターンの広がりなどにより、制度のほころびも見えるようになりました。そうした中、2012年度センター試験で起こった問題冊子の配布ミスなどが「制度廃止に直結する大事件」(倉元教授)となり、今回の大改革につながったといいます。
「高校生 大学入試、まだまだ将来的に変わる!?」(渡辺敦司,ベネッセ 教育情報サイト,2019.6.12,2019.6.20 最終アクセス)
長い引用を一言でまとめてしまうのも如何とは思いますが,こうした「移行」にかかわる要因分析が是であるならば,この「移行」には国の行政的な事情もあったことになり,また,それは現ポストモダン終焉期であれば〈当たり前〉のことなのかもしれません。
ただし,「共通一次試験」が昭和54年(1979)から平成元年(1989)まで実施され,平成2年(1990)より「大学入試センター試験」に移行,そして令和3(2021)年1月からは「大学入学共通テスト」の開始と,長期間にわたって施行される入試制度を俯瞰するとき,――先述したように,「大学入学共通テスト」においても,短期間の間にその相貌を「思考力・判断力・表現力」等を問う形式に一新できるとは思えないので,――「なぜこんなにも〈長期〉にわたるのか?」と言った疑問は拭い切れないわけなのです。
全くの壁越し推量で恐縮ではあるのですが,その根底にはホストモダンが生成してきた「エリート言説」――「脳内に蓄積した豊富な知識量を誇り,上司の命に従順にそれらの知識を引き出して見せる優秀な人言説」,それに付随して,そうした方々の内の多くが「共通一次テスト」・「大学入試センター試験」(・「大学入学共通テスト」)に代表される偏差値世界の上位層と連動していることから,「偏差値の高い大学を卒業・修了した偉い人言説」―― が蔓延(はびこ)っているとしか思えないのです。
私は「(経済力を含め,)精神性が豊かである」との意味合い/願いを込めた〈富国〉に異論を唱えようとはしていません。〈高次の文化〉を創造する〈富国〉の在り方には大いに賛成です。ですから,ポストモダンの時代に「エリート言説」が最上の権威性を保持し続けることは重々理解できますし,そうした所謂「エリート」が重宝であったことも承知いたしております。――それに似た職場にもいましたから。――
しかし,「Society 5.0」などにも見受けられるように,AI時代は,時間を要するにせよ,私たちの身近に迫ってきていることは事実です。「豊富な知識量」は人間を上回るAIが代替します。――飽くまでも「代替」と述べておきます。――大量の情報処理もAIが行います。いつの日かAIは各家庭に〈侵入〉してきます。そうした時代は「人間/AI」(=人間がAIを使いこなす。すなわち,力関係は「人間>AI」)とする二項対立的な思考性ではなく,「人間(自己)-AI―人間(他者)」,さらに具象化すれば,「人間(自己)―AI,自然,神仏等―人間(他者)」が共存・協働する一元論的な発想で捉えられなけばなりません。そうでなければ,万人が参加する〈新しい文化の創造〉を成し得ませんし,AIが人間の身近に存在するということは,――ある意味,理想的ですが,――万人にAIと協働し〈新たな文化〉を創造する権利が与えられるということでもあります。――AIの進化の方向性にも拠るでしょうが,AIとの共存が人によりけりで,大いなる〈懈怠(けたい)の心〉を生む原因ともなるでしょう。一方,〈新しい文化〉を創造する人たちもいるでしょう。その意味で,AI普及の初期に人類は,一旦〈二極分化〉するのではないでしょうか。――したがって,人によって様々な環境があるのですが,「万人による万人のための〈新文化創造〉」のためには,――概括的に述べますが,――AIや(AIを除く)他者と協働し〈新しい知〉を構築する(=〈知恵〉を出す)上において,〈思考力・判断力〉,そして,とても重要となる〈対話力(=「了解・到達不可能な自己及び自然等を含む《他者》」に近接しようと試みる営為)〉を含む〈表現力〉,〈相対化能力(≒俯瞰力)〉,延いては〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉を,時間は掛かるでしょうが,磨いていかなければならない(=「地頭」を「鍛」えなければならない)ということになるのです。そうです,「鍛地頭」が必要かつ重要なのです。――〈(自己を含む)他者〉との〈対話〉は,一面,〈鬩ぎ合い〉を有するものです。それは建設的でない,不毛の議論,さらに,それより低いレベルの言い争いのことではありません。況(いわん)や立場上の強者の御機嫌伺などではなく,絶対的な上意下達(じょういかたつ)だけのコミュニケーションを指すものでもありません。――その際,現代のSNSやブログ文化の見直しは不可欠です。このことは「SNS」や「ブログ」そのものを批判しているのではありません。それらの操り方を問題視しているのです。詳しくは,「関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ」※4をご覧ください。
国語力の低下の原因は、本を読む機会が減ったことがすべてではありません。核家族化など家族の在り方の変容によって起こった家族から子供への言語教育力の低下。近年のLINEをはじめとするSNSの普及。これらも原因のようです。
最近では、LINEに送信取消機能ができました。今まで以上に文章を考えず、そして読み返しもせず送ってしまうことが増えたという人も少なくないでしょう。まるで会って話しているかのようにやり取りが出来るSNS。便利ではありますが、メールや手紙に比べると文章を組み立てず、読み返すことなく安易に送ってしまいがちです。
「AI社会を生き抜くために 国語力を見直そう!」(荻野友里(早稲田大学),朝日・日経・読売3社共同プロジェクト 学生は言いたい! 学生がつくる,学生のための News Debate Project,2019年6月15日,2019.6.20 最終アクセス)…c
これからの時代、AIはどんどん身近なものになっていくでしょう。ですが社会の全てを飲み込むわけではないはずです。「AIに仕事が奪われる」と怯えるのではなく、人間だからこそ備わっている国語力の向上に努める。できることは、理系の能力を養うことだけではないと思います。何事も偏ってしまうのはよくありません。国語力の向上にもう少し、目を向けていきたいものです。
前掲サイトc(2019.6.20 最終アクセス)
若い世代の方が,上述の引用のようなお考えをお持ちであることに,私は何故か安堵感を持つとともに,敬服すら致す次第なのです。
さて,本節の結論です。
上述したように考えてくると,AI時代(≒一元論的トランスモダンの時代)には,如何せん,ポストモダンの〈申し子〉たる所謂「エリート」及び「エリート言説」は,少なくとも知識の貯蔵と出し入れの点において,〈不要〉となってしまうということです。
ここで,一言付言しておきます。
いくら現行の大学入試や「エリート言説」を否定しようとしても,事実,社会システムとして作動している限り,それは無理ではないかと仰る方が必ずおいでになると思います。
確かに,事実を否定するわけにはいきません。しかし,「「地頭」(=〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉) を「鍛」える こと」は,日常の工夫において,どなたにもできることだと思います。例えば,受験に直結している受験生に茂木健一郎氏は,次のようなお言葉を贈っておられます。
一年間は開き直って今の受験システムをまず突破しよう。でも,公式の丸暗記とかじゃなくて,自分で発見しながら探求型を採り入れてなるべく楽しく勉強しよう。受験が終わったら,切り替えてまた楽しく探究してください。
茂木健一郎(2019.4):『本当に頭のいい子を育てる 世界標準の勉強法』[キンドル版],第2章,大変化の時代を生き抜ける子に育てるために,検索元 amazon.com
私も同様に考えています。――受験生に特化することなく,〈人〉は工夫一つで,日常生活の中において「地頭」を「鍛」えることができます。詳細は別の機会に譲りますが,読書,「他者」との〈対話〉,調べ物,運動,芸術鑑賞,ブログの作成等々…それぞれに適切な方法はあるにせよ,その気になれば,それは可能なのです。――「受験言説」のパラダイムシフトにはかなりの時間を要するでしょう。ですが,だからと言って,手を拱(こまぬ)いているわけにはいきません。私としても本ブログだけの言表行為で終わってしまうわけにはいきません。言表行為を採った責任上。
そこで,徐々にではありますが,「鍛地頭-tanjito-」として,まずは大学受験生を含む高校生を対象とした「〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉育成のプログラム」の準備に取り掛かったところです。今夏から試行段階に入る予定ですので,奮ってご参加いただけますと幸甚です。
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【関連サイト】
「Society 5.0」(内閣府)
令和元年7月7日(日)
塾長 小桝 雅典
※1 「探究的な学習」については,「「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる〔11〕」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.6.2)を参照のこと。
※2 ※1のブログを参照のこと。
※3 令和元年(2019)年7月4日,NHKの文部科学省への取材により「大学入学共通テスト」の採点にアルバイトの大学生を認める方針であることが分かりました。既に事の是非を問う段階にはありません。私は長い間高校の国語教師を勤めて来ましたからよく分かることがあります。それは「どんな国語教育に通じたプロが集結しても,試験の採点においてブレが生じるときには生じる。」ということです。複数での確認体制を免罪符にしようとする主催者側の私情(笑)は理解できますが,大学入試の第一関門とも言うべき〈共通性・公平性〉を欠くことのできない「大学入学共通テスト」だからこそ,問題は余計にも重大なのです。一部の「エリート」の考えることです。自我中心主義に塗れています。「大学入学共通テスト」というシステム(制度)の履行を職責上押し切って遂げたいのです。こうした「共通テスト」が廃止にならない陰に,「ポストモダンの「エリート」」だけを育成すれば良いとする〈国体〉が存在すると考えられます。その左證が今回の「大学生アルバイト問題」と言えるでしょう。私の身近にいる大学受験生の生の言葉です。「ええ!! 不安で仕方がない。人生が決まるんよ。私たちのことは何も考えられていない。なぜこんなことを考えるん? ねえ,先生!!!」――私が怒られても…
※4 本シリーズは完結していないことから,「現代ブログ言説」の十分な〈相対化〉について,(現状では)表現されていません。したがって,今後に譲るところが多いため,あらかじめお断り申し上げます。
- 「「The パクるな!!」-ブログ類似言説の〈相対化〉-(第5回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.2.15)
- 「「現代ブログ言説」を〈相対化〉する―前夜祭(Eve)―」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.2.10)
- 「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第3回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.2.6)
- 「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第2回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.1.1)
- 「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第1回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2018.12.29)
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当塾へのご質問・ご意見については,次の「お問い合わせフォーム」をご利用ください。
【過去の「塾長の述懐」シリーズ】
- 「「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる〔11〕」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.6.2)
- 「受験脳(テクニック)」育成の弊害と「鍛地頭」の必要性について〔10〕」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.5.26)
- 「塾長の述懐 第9回 脱現行受験社会(2019.5.19(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.5.19)
- 「塾長の述懐 第8回 脱自我中心主義(2019.5.5(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.5.6)
- 「塾長の述懐 第7回(2019.4.28(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.28)
- 「塾長の述懐 第6回(2019.4.21(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.23)
- 「塾長の述懐 第5回(2019.4.7(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
- 「塾長の述懐 第4回(2019.3.31(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
- 「塾長の述懐 第3回(2019.3.24(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
- 「塾長の述懐 第2回(2019.2.3(Sun.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
- 「塾長の述懐 第1回(2018.6.26(Tue.))」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.17)
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西日本豪雨災害から1年-それぞれの想いを乗せて
まずはじめに,平成30年7月の西日本豪雨災害に際し,お亡くなりになられた皆様に謹んでお悔やみ申し上げます。
また,被災された皆様に衷心よりお見舞い申し上げます。
あの豪雨災害から一年。被災状況が掲載されているネット情報※1を拝見すると,それぞれの地区で亡くなられた方,怪我をされた方及び床上・床下浸水の発生数と共に,当時の画像が大きく掲載されていました。その画像を一枚一枚,目に焼き付けるように拝見しながら,私の脳裏には当時の私の身に起きた出来事が次々と呼び起こされていきました。
……あの日……,……あの時……,……あの場所で……,……あの人が……。
被害に遭われた方それぞれが何を想われ,どのようにこの一年を過ごされてきたのか。
一被災家族の現状をお伝えできればと思います。
1 〈失う痛み〉
「母ちゃん,避難するん?!」
そう言って不安そうな表情を浮かべる息子と娘。被災して以来,私の携帯電話に届く気象情報や災害情報の通知音を耳にすると,こどもたちが反射的に訊ねるようになりました。前もって豪雨が予報されている時は,「これとこれと,あれも持って行く。」と避難時に持ち出すものを確認しているこどもたちの姿があります。
平成30年7月6日(金)20時10分頃
アパートの脇にある道路が冠水していることに気づき,逸る気持ちを抑えながら私は避難準備をしていました。そんな私に息子が近づき,「母ちゃん,僕と○○(←娘の名前)は何を持って行ったらいい?」と訊ねてきたのです。私は咄嗟に「自分が大事にしているもの! 失いたくないもの!」と捲し立てるように返答したのです。
息子は,学校の教科書や筆箱などの学用品を詰めたランドセルと学校の制服,お気に入りの本や日記帳を手提げ袋に詰め込みました。娘は,小さなぬいぐるみ二つをぎゅっと抱えてポツンと立っていたのです。
避難から一夜明け,旧自宅アパートが床上浸水している事実を,携帯電話で撮ったばかりの画像を見せながらこどもたちに伝えました。その翌日には,現状をしっかりと理解させるために,泥まみれになった自宅アパートに敢えて二人のこどもを連れて行きました。
「あっ!! これ……。」
お気に入りのおもちゃや本が泥水に浸っているのを発見した息子。
「………。母ちゃん……。」
無意識につないだ手に力が入る娘。
そっとこどもたちに目を向けると,二人は言葉にできない気持ちをグッと堪えているようでした。見る見るうちにその小さな瞳は涙で溢れ返っていきました。
被災した自宅アパートの片づけを塾長に手伝っていただきました。処分するもので足の踏み場もない中,「こどもたちのおもちゃだけは何とか残そう。」と処分を免れそうな代物を塾長は懸命に見つけ出してくださいました。そして, 一つ一つ丁寧に消毒・洗浄し, 天日に干した「ブロック」「トミカ」「プラレール」,それに「ままごとセット」は再び使用できる状態になったのです。
しかし,それ以外のものはすべて処分しなければなりませんでした。こどもたちの成長とともに,一緒に楽しい時を創り上げてきた思い出の品の数々を一斉に処分しなければならないという現実に心が折れました。道路を挟んだ空き地に数々の「思い出」は〈思い出〉となって高く積み上げられていったのです。泥まみれの自宅に最後まで残されていたものはおもちゃでした。「明日,使えなくなったおもちゃを捨てるからね…。」とこどもたちに話すと,「パズルは?」「お人形のベビーカーは?」「おえかきは?」と落ち着かぬ様子で口々に問いただしてきます。「残せたものは4つ(種)だけ」と伝えた途端,こどもたちはガクッと膝から崩れ落ちました。
誰が悪いわけでもない。けれど,失わなければならない。ほんの数日前まで,ずっと大切にしていたものを捨てなければならない。大きな声で泣きわめくでもなく,「嫌だ」と駄々をこねるわけでもなく。ひたすら「おもちゃ」を凝視するこどもたちが握りしめていたものは,小刻みに震える自らのこぶしだったのです。
この日を契機に,〈失う痛み〉を知った息子と娘は,〈ものを大切に扱うこと〉を学びました。
「被災した現実」を,息子と娘はどのように認識したのか…。小さな小さな心の内に,大きく深く刻まれた傷跡が残ったことだけは間違いのない〈事実〉なのです。
2 いろんな「かたち」で残る爪痕
西日本豪雨で甚大な被害を受けた広島県ですが,まだまだ復興というには程遠い現状があります。現在,私が通っている広島国際大学も裏山の大規模な土砂崩れを受け,未だにその爪痕が生々しく残っています。その他,本県には,復旧に着手する優先順位があるため,全く手が付けられていない箇所も多々存在します。
毎朝, 出勤のために通る幹線道路では,今尚,災害復旧活動のため,荷台に大量の土砂を積んだトラックと何台もすれ違います。災害発生から1年経った今も,なかなか思うように復旧作業は進んでいないのです。あれから1年。ずっと不安を抱えたまま,日々の生活を送っておられる多くの方々がいらっしゃるということです。
私は被災後,少し強い雨が降ると胸を締め付けられるようになりました。「被災はしない。大丈夫だ。」と分かっていても,どこからともなく恐怖が襲ってきます。当時,避難場所だったのは息子が通う小学校の体育館。その体育館の屋根を打ち付ける激しい雨音が今でも鮮明に記憶されており,大粒の雨が地面や家屋を打ち付けると,否が応でもあの日の記憶を蘇らせてしまうのです。
提供 広島豪雨災害~命を守るために~,FNN PRIME,2018年8月6日
令和元年5月中旬。
車を運転中,ふと目にした光景に,私は息が詰まりました。その光景は,田植えを控え,水が張られていた田んぼでした。被災した旧自宅アパートのすぐ近くには田んぼがあったのですが,田んぼに溜まりに溜まった雨水が泥水と化し,旧自宅アパートに勢いよく流れ込んでいたのです。それが記憶の奥底に眠っていたのでしょう。田植えを控え,水を張った田んぼを見た瞬間,その記憶がフラッシュバックしたのです。頭痛と吐き気に襲われ,路肩に車を停めて落ち着くまで休むことを強いられてしまいました。その後,同じ状況が数度起こったのです。
思いもよらぬことで当時を思い出すものです。忘れようと思っても忘れられることではありません。豪雨に見舞われ,翻弄された人々は,〈何か〉を抱えて生きていらっしゃるのだと思います。
3 人の〈こころ〉を知る
「この経験を記録に」と残した当時の写真を見ていると,「こんなことがあった」「あんなことがあった」と多々思い出すことがありました。
避難した日(平成30年7月6日)の夜から朝にかけてはとにかく寒く,旧自宅アパートから持ち出したタオルケットだけでは凍えるような避難先の気温でした。ジャンパーも持参しましたが,こどもは「寒い!」と訴えながら寝たり起きたりを繰り返していました。私は自分が羽織っていた服をこどもに掛け,体調を崩さないようにと願うばかりでした。
避難所となった小学校には,なんとかたどり着くことができた役所関係の方が二名おられ,1時間,乃至は2時間おきに避難者の様子を伺い,声を掛けてくださいました。
男性職員さん:「何か困っていることなどありませんか?」
私:「こどもが寒いと訴えているのですが,何か暖を取れるようなものはないでしょうか?」
男性職員さん:「わかりました。探してみます。」
この時点では,まだ救援物資などありませんでしたので,学校内にあるものをお借りするしかありませんでした。しかし,結局,何も見つからず,「気休めにしかならないかもしれないけれど…。」と息子の体に,男性職員さんが着用していた服を掛けてくださったのです。その時撮影したものが下の写真です。
避難先の小学校で就寝するこどもたち,平成30年7月7日早朝
職員さんにもご自身の住む家があり,家族がいらっしゃる。そのような状況下で,自らの不安を押し殺し,お気遣いを頂いていたのだと思うと感謝の言葉しかありません。お陰様で,こどもたちは体調を崩すこともなく,無事に避難生活を送ることができました。
避難してすぐ,とても困ったのは避難先に外部の情報が全く入って来ないことでした。避難所となった小学校に待機してくださった役所の職員さんも,「ここにいるだけで,何も情報が入って来ないのです。」「本部(役所)からの連絡を待つことしかできない状態です。」とおっしゃっておられました。
そのような折,私の携帯電話の通知音が甲高く鳴りました。息子が生まれてから知り合った友人が連絡をくれたのです。外部の状況が全く分からないことを伝えると,逐一連絡を続けてくれました。この連絡で,初めて黒瀬地区も大きな被害を受けていることを知ったのです。
真っ先に知りたかった自宅の被災状況を知ることができたのは,少し雨が上がった翌7日の午前9時ごろだったと思います。「あのアパート付近は,現在,」160センチの浸水。」と教えてくださったのは,消防団の方でした。約100メートル先にある旧自宅アパートまでたどり着くことができず,ただただ立ち尽くしていた時のことでした。
避難先の小学校に戻り,ふと目に入ったのが校長室に設置されているテレビでした。「少し見てもいいですか?」と了解を得て,そこで初めて広島県内に甚大な被害が出ていることを知ることになります。テレビに映し出された変わり果てた光景に愕然とし,「えっ?!」「えっ?!」という声にならない声が出るだけでした…。
「これ坂(広島県安芸郡)ですか?」「えっ?! 矢野(広島市安芸区)?!」
「えっ?!」「(地名)」,この2つしか言葉として出てこない。
この頃になると,SNSで詳しい被災の状況が情報共有されるようになりました。テレビでは報道されていない地区(被災状況がひどく取材に入ることができない)の被災状況も知ることになります。以前住んでいた地区も甚大な被害を受けており,何も言葉になりませんでした。
その他にも,県外にいる親戚から連絡があり,中でも「阪神淡路大震災」を経験した叔母は「生きていれば,後は何とかなる!!」と勇気づけてくれました。
一年前に書いた記事「「被災者」となって ―人の痛みと思いやりを知る―」(住本小夜子,当塾公式ホームページ,2018.7.27)には,当時,肌身に感じた人の〈こころ〉を綴ってあります。避難当初から,たくさんの方々にお世話になり助けていただき,そこにはたくさんの方々の〈こころ〉がありました。
しかし,人の「こころ」の中には心無い言葉があったことも事実です。誰しも,被災したくてしたのではない。それまであった生活を犠牲にしてまで,被災したいと思った人がいるでしょうか?
「(被災していない)私の家にも給水してもらえんのんかね~」と大声で皮肉を言われ,相手がどのような人間かを知りました。同じような状況に置かれ,同じように皮肉を言われたら,この人はどう思うのだろうか。「支え合う・助け合う」ということを知らない。自分さえ良かったらそれで良い。その人の本心が見えた時,その人との縁は切れました。
被災したことよりも,「心無い言葉」の方が辛く苦しく悲しい。あの時,私に向けられた言葉は一生忘れることができないでしょう。皮肉を言った本人は,もうとっくに忘れているのでしょうが…。 人間が持つ「言葉」は,これほどまでに相手を追い詰め,傷つけるのです。遣い方/遣う人次第で,言葉は「狂気」※2に変わるのです。
相手を想う〈こころ〉を見失うことなく,こどもたちにも〈思いやり〉とは何かをしっかりと教え,人の〈こころ〉の大切さを持ち続けていきたいと思います。
4 復興への「光」
平成31年2月。
地域住民の方との交流が叶いました。自宅周辺を知る良い契機になるかもしれないとの思いもあって,自治会の地域清掃に参加したのです。現在の住居に引っ越して来て7か月が経っていましたが,自宅周辺を歩いたことはありませんでした。
小グループに分かれての作業だったのですが,簡単な自己紹介も交え,会話を楽しみながら清掃していました。すると,一人の女性がポツリとつぶやかれたのです。
「今年はホタルを見られるかね…。」
私はすぐさま「ホタルがいるのですか?!」と訊き返していました。女性がおっしゃるには,
「毎年,時期が来るとホタルが見られるのだけれども,今年は去年の豪雨災害の影響があるからどうなるか分からないね。」とのことでした。
令和元年6月10日(月)。
こどもたちを連れて,先述の女性がおっしゃっていた川へ行ってみました。そこで,ぽわ~んと動く緑色の光を発見!! 思わず「おったーーー!!」と嬉しさのあまり悲鳴を上げ,テンションが頂点に達したのは,何と,私だったのです。(笑)
こどもたちは,初めて見るホタルの光を必死で追いかけていました。普段は虫が怖くて触ろうとしない息子が,自らホタルを捕まえて触れてみたり。その姿に触発された娘も,息子の両手に掬われた幻想的なホタルを恐る恐る観察したり。
こんな近くでホタルが見られるなんて。
現在の自宅から歩いてすぐのところに小川があることさえ知らなかったのです。
帰宅途中に,ご近所の方にお会いしました。
私:「ホタルを見てきたんですよ。」
ご近所の方:「毎年楽しみにしているホタルを今年も見ることができるんじゃね。もう見られないかと思っていた…。本当に良かった。」
安堵の表情を浮かべながら,その方は微笑まれたのです。
災害という自然に恐怖を覚え,ホタルという自然に感動する。自然と人間との〈共存〉とは何かを考えさせられたのです。
参考:【こどもたち、人生初のホタル】,(住本小夜子のFacebook投稿記事,2019.06.11)
5 被災し〈いのち〉を考える
西日本豪雨災害を受け,広島県を初めとする市町村において,防災に対する種々の新たな取り組みや改善がなされてきました。例えば,ハザードマップの見直しや防災セミナーなど。行政と住民との情報交換の場も設けられました。
ただ,この活動が「かたちだけ」で終わることのないようにと願います。改善すべきところはたくさんありますし,それをみんなで考え,取り組むことが大切だと思うのです。異なる立場の人たちが集い,〈こころ〉を開いて〈傾聴→対話〉する。立場間で生起する矛盾を〈矛盾〉として内包したまま,それぞれの立場から成る考え方を止揚(aufheben)し,高次の考え(方途)を構築する。このことが重要だと思うのです。また,時が経つとともに薄れていく「記憶」。だからこそ,しっかりと「記録」として残す必要があるし,伝えていかなければならないのだとも思います。
みなさんは「自然災害伝承碑」をご存知でしょうか? 西日本豪雨災害で多くの犠牲者が出た広島県安芸郡坂町には,100年以上前に起きた水害を伝える石碑があるそうです。
我が国は、その位置、地形、地質、気象などの自然的条件から、昔から数多くの自然災害に見舞われてきました。そして被害を受けるたびに、わたしたちの先人はそのときの様子や教訓を石碑やモニュメントに刻み、後世の私たちに遺してくれました。
その一方、2018年7月の西日本豪雨災害で多くの犠牲者を出した地区では、100年以上前に起きた水害を伝える石碑があったものの、「石碑があるのは知っていたが関心を持って碑文を読んでいなかった。水害について深く考えた事は無かった。」(平成30年8月17日付け中国新聞より引用)という住民の声が聞かれるなど、これら自然災害伝承碑に遺された過去からの貴重なメッセージが十分に活かされているとは言えません。
これを踏まえ国土地理院では、災害教訓の伝承に関する地図・測量分野からの貢献として、これら自然災害伝承碑の情報を地形図等に掲載することにより、過去の自然災害の教訓を地域の方々に適切にお伝えするとともに、教訓を踏まえた的確な防災行動による被害の軽減を目指します。
自然災害伝承碑,国土地理院,国土交通省(2019.07.06 最終アクセス)
被災後の片づけをしていた時のことです。 私たちが被災した旧自宅アパートがあった地区では,20年前にも水害があったことを,近隣にお住まいの方のお話で知りました。避難所となった小学校の体育館を訪れた自治会の方からは,「あそこ(被災地区)は大雨が降ると,水に浸かる。」「引っ越す前に,古くからその場所に住んでいる人に自分から話を聞きに行って情報を得ないとダメよ。」と教えていただきました。
参考:「副塾長,西日本豪雨により被災!! -「思い出」が〈思い出〉になってしまった-」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.7.5)
自然災害伝承碑が存在し,以前に災害を経験しておられる人がいるにもかかわらず,なぜ同じような被害がでてしまうのでしょうか。それは,自ら率先して話そうとする人がいないからでしょうか。それとも,自ら率先して話を聴こうとする人がいないからでしょうか。
私は思います。
この問題はそうした「話さないから/聴かないから」といった二項対立の枠組みで考える問題ではないのです。そうした微視的な視点ではなく,「自然/人間(≒自然対人間)」として,しかも「自然<人間」として考える近代の「知(思考)」の枠組み(フレーム)という巨視的な視点から考える問題だと思うのです。長い年月,人は「自然」と「人間」とを〈切り離して〉考えて来ました。その過程で人は「自然」を〈こころ(精神)〉を持たないモノと見,「こころ(精神)」を持つ「人間」が「自然」を支配できると考えてきたのです。その結果,現代に至って「環境問題」が生起したのです。だから,今になって,世界的な規模で「自然―人間」間の〈共存〉を考えようとしているのです。しかし,相も変わらず「人間」は(ややトーンダウンはしたものの,)自我中心主義を貫こうとし,「自然」は自らを〈主張〉し始めました。そこで,その両者間に生じる「矛盾」を〈矛盾〉とし,両者の主義主張を止揚(aufheben)した高次の〈共存〉関係の模索が始まっているのです。したがって,こうした思考性を持つ人々が世界的な規模で増えていけば, 「話さないから/聴かないから」 といった問題は必然的に消滅する問題と言えるのです。ただし,その際,「矛盾」を〈矛盾〉として超越するには,「他者」との〈対話〉(≒〈つながり〉)が必要になります。その成就が鍵となるのです。そういう意味からも「絆(つながり)」は大切なのです。
現在の住居に引っ越してすぐ,私は自治会に加入しました。どこに誰が住んでいらっしゃるのかを知るため,そして,私たち母子の存在をみなさんに知っていただくためです。また,同じアパート(棟)に住まわれているすべての方々と面識を持ち,会えば必ずあいさつをし,井戸端会議ができるご家族もできました。別の棟の方にも,あいさつは欠かしません。お互いがお互いの存在を認識し合うこと,そこから〈つながり〉が生まれていきます。
何も〈つながり〉は近隣の方だけのものではありません。本ブログをお読みくださるみなさまとも,私は〈つながっている〉のだと思います。そこで,その〈つながり〉の証に,1年前の被災から私が考えこと・感じたことを率直にお伝えしようと思います。何かの参考にしていただければ幸いです。
私は,被災直前にテレビや携帯電話で避難情報と河川水位を確認していました。しかし,実のところ,その情報を信じ切れずにいました。自分の目で確認しないと,納得できなかったからです。ですが,それは誤りでした。経験上はっきりと申し上げることができるのは,次の事柄です。
- 「避難」と言われたら即座に「避難」する!!
- 増水した河川を決して見に行ってはいけない!!
- いざという時のために,日頃から防災グッズを備えておく!!
- 日頃から被災時の行動を家族としっかり話し合っておく!!
一年前に避難した時は,家族みんな揃っての避難でした。しかし,万一別々の場所にいたら…。息子と娘には次のように話しています。
- そのときにいる場所(学校,保育所,放課後等デイサービス等)の先生(大人)の指示にしっかり従うこと。
- みんな別々になっていても,必ず会えると信じること。
- 最終的な集合場所は,○○小学校。
そして,現在の住居から最も近い避難場所の確認も致しました。
西日本豪雨災害で亡くなられた方は,全国で219人。けが人は404人。※3
みなさんは,いざという時に助け合える方はいらっしゃいますか?
日頃からその〈つながり〉を大切にされていますか?
この被災経験を忘れることなく,あの日から私は私に何ができるのかを日々自らに問うています。そして,〈いのち〉の有り難みをしっかりと噛みしめて,〈生きる〉ことを全うしたいと思います。
最後に,当時,たくさんの方々に助けていただいたご恩に対して改めて感謝申し上げます。
誠にありがとうございました。
令和元年7月7日 住本小夜子
※1 西日本豪雨に関するトピックス,朝日新聞DIGITAL(2019.7.04 最終アクセス)
※2 「言葉という狂気」,住本小夜子のブログ,2009.04.13
※3 ※1を参照のこと。
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・「副塾長,西日本豪雨により被災!! -「思い出」が〈思い出〉になってしまった-」
・「「被災者」となって ―人の痛みと思いやりを知る―」
・「「平成30年7月豪雨」による「被災」を振り返って―防災教育と療育の視点を交えて―(その1)」
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